はじめに
多くの人は初めて、学部4年生などで研究室に配属されて初めて、「研究」を始めることになる。ところでこの「研究」、学部3年生までにやっていた「勉強」とは全く異なるゲームである。なのだが、多くの場合、「研究とは何か?」を教えられることなく卒業研究に放り込まれるため、研究に戸惑うケースが多い。
このミスマッチを極力なくすために、これまでの経験から思うことを書いていきます。
研究とは何か
一言でいうと、「人類がまだ知らない何かを見つけて、知の巨人を成長させること」である。
別の観点で、「研究とは何か」を知るために、「研究は〇〇ではない」という観点でも差別化しています。
研究とは、勉強ではない。
勉強とは、既に誰かの手によって体系立てられた学問を学ぶことです。学部3年生までに習う、講義・実験・演習は、全て「勉強」です。「勉強」は、既に体系図けられていることを習得することであり、正解不正解を判断する事が出来る。点数をつける事が出来ます。しかし、「研究は」どこまで行けば合格とか、今の研究は90点、といった形で点数化できるものではないです。なので、テストなどの点数を上げることが得な学生は、戸惑うことになります。
研究とは、技術習得ではない。
研究の過程で技術は身につくのだが、技術の習得自身が目的な訳ではないです。技術を習得を目的化するのは、専門学校の様な組織です。あくまで、研究の目的は、「人類の未知」を「既知」にすることです。
まだやられてないことは全て研究、ではない。
往々にして、「穴が掘ってなかったから掘った」という類の話を、大学でも、学会でも、よく聞く。未だ為されていないことは研究の必要条件であり、その上で、「それが分かることによって、知の体系がどのように深まるか」について、仮説を持っていないといけない。
卒業論文・修士論文で大きな仕事を残すのは難しい。
学部4年生の時点で持つ疑問は、ほとんどの場合誰かによって既に調べられている。例えば、「気候変動で、日本の降水量はどういう変化をしているのだろう?」という疑問を持つかもしれない。この疑問の場合、100件を超える既往研究が見つかるだろう。大学で行う研究は、小学生が行う夏休みの自由研究とは違うのである。
研究とは、先人が解決しきれなかった技術・疑問を、一歩でも前に進める泥臭い営みである。勉強のできる学生が、この緻密な作業の積み重ねをできないケースがあります。
研究において大事なこと
面白いことに、そして多くの先人が指摘する様に、「勉強が出来ること」と「研究が出来ること」は、全く異なる。小槻自身が周りで見てきた学生を見ても、学校の成績と研究能力は、ほとんど無相関に見える。また面白いことに、成績がやや悪い学生が、研究者として大きく成長していくことが、よく見られる。
(1) 不思議に思う/何故だろうと考える。
これまで述べてきたように、研究とは「正解があってそれを当てに行くゲーム」ではない。そのため、「これで合格かな?」と思って先生に結果を持っていっても、「これはどうなってるの?これは調べた?こんな実験してみたら?」と、TODOリストが増えることになる。「早く正解にたどり着きたい」というマインドで研究に取り組むと、いつまでも増えるTODOリストにゲンナリすることになる。
研究において大事なのは、自分の頭と言葉で、「何故だろう?」と考え、自分でその不思議を解決するためのアクションを自分で設定することである。きちんと研究が出来ている学生に、「これってどうなってるの?これが原因ではないですか?」と質問をすると、「それは不思議に思ってこういう事を調べたんですけど、それは違いました」という返答が帰ってきます。MTGでは10枚のスライドで進捗報告していても、それ以上のバックアップスライドがある場合がほとんどです。
(2) 自分で調べ、自分でタスクを設定する
研究において、不思議やバグにはよく出会います。そういう時に、すぐに先生に聞くのではなく、まずは自分の頭で考えたり、調べたり、仲間と議論することが重要です。研究で身に着けるべきは、「次に行うタスク・正解を知って、それをこなすこと (答えを知ること)」ではなく、「次に行うタスクを自分で設定できるようになること (答えにたどり着ける能力を身に着ける)」ことです。
(3) 考えすぎず、まずは手を動かしてみる
純粋物理・純粋数学を除けば、「下手な考え休むに似たり」で、良く分からなければ手を動かして実験・計算してみるという思考も大事です。
これも受験の弊害だと思いますが、受験思考 (失敗したくない) の学生に、「これをやってみようかな、でも、こんな理由で上手くいかなさそうだな」という思考に捉われて、なかなか研究が前に進まないことがあります。よくわからんかったら、まずは手を動かしてみましょう。研究において、「考えた量」は全く評価されません。出した結果で評価されます。
では何故、「研究」を学ぶのか
知的に高度な営みであり、これこそが社会の高度人材に求められる技術だからだ、と思っている。
既に定義された問題を解き、良い点数をあげることは、それほど難しいことではない。既にビジネスモデルと仕事が確立された会社に入り、その仕事を着実に遂行する能力に相当する。
その一方で、これだけ変革の激しい社会において、「何が問題なのか?次に何をすべきなのか?」を考えられる人材がいないと、会社はいずれ行き詰ってしまう。つまり、「目の前の課題を完遂する能力」よりも、「何が課題かを考えられる力」を身に着けることが、高度人材として重要なのである。
またその観点では、「考えるだけ」ではなく、「実際に行動して、結果を得る」という習慣も大事になってきます。これからの時代、ネットで手に入るような知識はネットで手に入れればいいし、一般的な正解はAIが教えてくれるようになるかもしれません。そんな時代で大事なのは、「失敗も含めて、自分で行動して得た経験値」になるのではないかと思います。知識よりは、自分で体得した経験が大事になってくるのではないでしょうか。
研究室の運営や経験で分かっていること
研究が出来るか否か、は、ほとんど成績と関係ない (薄くはある)。これは、多くの教員が同じような意見を持っている。それだけ、「正解がない問題に取り組む」のは難しいのである。器用なタイプよりも、むしろ不器用なタイプの方が向いていたりもする。自分の頭で考えられるか否かが一番大事。正解を出すことを目的にするのではなく、「なんで上手くいかないのか、なんで上手くいったのか?」という理解を目的化すると、研究が進むかもしれない。
研究がうまく進まないパターン
勉強と実験のバランス: 勉強だけしても、研究は進まない。手を動かした量は、かなり研究に効く。ほとんどの場合、研究が進む学生は大学によく来るし、よく研究もする。捧げた時間が効く。
失敗するリスクを恐れすぎる: 実験なので、失敗してもいい。のだが、「これをやっても、こういう理由でダメかもしれない」という思考で手が動かせない。ダメかもしれないが、できるかもしれない。だったら、実験して結果を見るのが一番早い。研究において大事なのは、成功率ではなく、成功数である。