
AI要約版
研究者として自走できるようになるまでに、僕には三つのステップがあった。正しく解析できること、他人と議論できること、そして自分の頭の中で議論できることだ。
学会やミーティングに、解釈に困った結果や判断に迷っている選択肢を持っていく。そんな議論を重ねるうちに、相手がどこに目をつけ、何を基準に判断するのかが、少しずつ自分の中に残っていく。やがて一人で行き詰まったときにも、「もし〇〇さんだったら、どう考えるだろう」と考えられるようになる。
人生でも研究でも研究室の運営でも、合理的に考えても答えが決まらないことはある。そんなとき、先生や親の「データと向き合ったか?」「置きにいってないか?」という声を思い出すと、自分なりの判断の指針が見えてくる。これが「自分の中に別の人格を飼う」という感覚である。若い研究者や研究室メンバーには、他人との議論の時間を大事にして、自分の中の多様性を養っていってほしい。
自走するために、自分の中に別の人格を飼う
先週、気象学会が京都であった。3人の子育てという家庭の事情や講義もあり、2日日帰りで参加するだけになったが、非常に楽しかった。気象学会のポスター発表はこの歳にして初めてだったのだが、多くの人に来てもらって議論が弾んでよかった。風景予測に関する研究だったので、こういった研究が広がってほしいと思う。口頭発表は気象制御のセッションだったが、セッション自体が非常に盛り上がっているようで、元気を得た。
終わった後に、仲のいい研究者から「千葉大のグループは勢いがあっていいですね」と言われたのが、とても嬉しかった。曰く、千葉大メンバーは研究発表の主語で「我々」という言葉を使うらしく、それがすごくチームでやっている感じで印象に残ったとのこと。「研究は一人でやっているものではなく、人に支えられてやっている。主語はIではなく、Weで話そう。」というのは日頃から言っているので、そういったコメントを得られたことは非常に嬉しかった。
さて、今回のテーマは「自走するために、自分の中に別の人格を飼う」ということである。これは「多重人格になれ」といったようなマッドなことを言ってるわけではなく、難しい物事の判断をするときに、自分が尊敬する別の人間の視点を持った方がいいという意味である。今日はそのことについて考えてみる。
自走に至るための条件 = 自分の中で議論ができる
まず、自走するための条件について考えてみる。僕自身は研究者なので、基本的に研究を念頭に置いたものである。自分自身が4年生から研究を始めて今に至るまでに、自走できるようになったと思うまでに、いくつかステップがあったように思う。
まず第一のステップとは、「正しく解析ができる」という点である。データを正しく取ってきて、正しい解析をして、正しい結果を出す。これ自体は基礎体力として必要なもので、出しているものが正しいかどうかということは、教員に確認してもらう中で身につけてきたように思う。これ自体は修士課程までの間に、おおむね身につけたように思う。またこの能力は、仕事で言えば、「求められているアウトプットを理解し、そのアウトプットを出せる」ことに相当するかと思う。
次に第二のステップは、「他人と議論する」である。僕自身、これがちゃんと身についたと思うのは、博士を取得して3年か4年経った後だったように思う。研究員時代に、ミーティングに際して意識していたのは、「結果・報告」ではなくて、「議論・アーギュメントを持っていく」ということである。結果を出すのは当たり前であり、仮説演繹を通して自分の中で研究を進め、わからない点や方向性に迷うところまで進めて、議論・アーギュメントをMTGにもっていく。例えば、「こんなパラドックスがあるんですが、これが分かりません。」といった類の報告や、「方向性1と2があって、それぞれPros/Consがありますが、どう判断したらいいでしょうか」といったものである。
最後に、第三のステップは「自走できる状態=自分の中で議論ができる状態」である。これは基本的に自分自身で物事を回せる状態ともいえ、その条件は、自分の中でディスカッションを行えることだと僕は考えている。第一のステップ、正しく解析できるというのはその必要条件で、第二のステップとして他人との議論を行う。それをもって、最終的には自分自身の頭の中で議論を行える。これによって問題を解決し、自走できるのだと考えている。
他人との議論を通して、自分の思考能力を鍛える
この「自走できる状態=自分の中で議論ができる状態」に至るために、必要なのは他人と議論を行うことである。そのために有益だったのは、学会やMTGに議論・アーギュメントを持っていこう、という視点だったのだと、振り返って思う。
この議論、アーギュメントを持っていくというのは、当初意識していたのは、ミーティングを楽しくするためだったり、学会で相手の反応を得るためのものだった。相手の立場に立ったときに、単純に報告を聞くよりも、よくわからないことや困っていることを聞いた方が楽しいだろうと思ったのである。これは例えば学会発表についても言えて、自分自身が学会発表して、より多くフィードバックを受けるときは、いい結果だけではなくて、最後に困っている点や行き詰まっている点を共有したときだった。多くの人は基本的にキュリオシティや善意を持っているので、こういった「どうしたらいいかよくわからない、困っている」という状況に対して、アドバイスをしたくなるようなものだと思う。
しかし結果的に、このアーギュメント、議論を持っていくというのは、別の面で得たものがあった。それは、「他の研究者・上司・先生がどういった物事の判断基準で考えるか、最初にどういった切り口で捉えるか」、ということを知ることができたからである。例えば、そういった困っている、迷っているといった状況を考えたときに、答えではなくて、「こういうときはまずこうやって考えるんや」とか、「この場合は鉄板はまずこういう解析なんだけどな」といったようなアドバイスを得ることができる。
こういう経験を重ねていくと、困ったときにこのように考えることができるようになる。
「もし〇〇さんだったら、どう考えるだろう」
これが、「別の人格を飼う」の意味である。
自分の中に別の人格を飼う
研究者の場合として、その研究者なりの物事の見方、問題の落とし方、切り口というものが出てくる。これは何が正解というわけではなく、武芸における一芸のように、それぞれの研究者は、その得意技というものが伸びてくるのだと思う。研究自身において行き詰まったときに、「あの人だったら、こういう問題をどう考えるのか」といった視点で考えることで、自分自身が行き詰まったときの対処法を考えることができる。自分の中で振り返ってみても、時々そういった思考をするのだが、やはりその思考をするときに出てくる相手というのは、多く議論をした人である。結局、こういった議論を通すことによって、その人の思考パターン、考え方のパターンというのを獲得できるのだと思う。
そしてこれは、研究だけではなく、より抽象的な物事の判断を行うときにも重要になってくる、判断を助ける力である。例えば、プロジェクトの運営、重要なディシジョンメイキング、研究室の運営、人の採用、研究費の応募、学生の指導方針といったような、悩み・判断に迷うことというのは、いよいよ起こってくる。なぜそういった悩みが起こるのかというと、多くの物事は悩まずに解決できるので、悩むことしか残らないのである。そして悩むことというのは、得てして相反する、アンビバレントな両面価値を持っており、「こちらを立てればあちらが立たず」といった構造になっていて、合理的に考えても、どちらを選ぶかは決まらない。
ここで必要になるのが、物事を考える判断基準、プリンシプルである。
自分なりのロールモデルを作って、「あの人だったら、この場合どう考えるだろう」と思考することで、そういった物事を考えるときに一本の指針を得ることができる。
僕の場合、そういったプリンシプルは、深く指導して頂いた先生や、尊敬している先生、親から獲得してきたように思う。「データと向き合ったか?」「置きにいってないか?」「迷ったら困難な道を選んどけ」「依頼された仕事は断ってはいけない」「最後は人間性」「周りから次は何をするんや、と思われる研究者にならんといかん」「成果よりも誠実性。一度失った信用は取り返せない。」などなど。こういったプリンシプルは、その状況に応じて思い出すことで、自分なりの行動指針を得ることができる。そういった判断基準・プリンシプルまで得るためには深い付き合いや愛情が必要であり、感謝している。
結局、これが意味するものは、「自分の中に多様な価値観、判断基準を持っておく」ということである。しかし、その多様な価値観、判断基準というものをExplicitに持つのではなく、特定の尊敬する人物の人格、考え方を自分の中に持つことで、Implicitに獲得することができる。そして、そういった多様性、プリンシプルを獲得しようと思うなら、議論・ディスカッションに尽きる。特に若い研究者、研究室メンバーには、そういった議論、他人との議論の時間を大事にして、自分の中の多様性を養っていってほしいと思う。
最後に、「自分の中に別の人格を飼う」というのは、得てして僕の場合は尊敬する方々なので、こういった言い方は不遜でもあると思う。ただ、自分ではそのような感覚で、いろんな人の視点を持っておきたいと思っていて、こういった表現をしている。この点はお許し願いたい。
