AI要約版
制約理論の考え方は、全体の成果を左右しているボトルネックを見極め、そこに力を注ぐことである。例えば、同じ「論文が書けない」でも、かつての僕は、先行研究の理解やリサーチクエスチョンの立て方でつまずいていた。一方、今の研究室では、アイデアも実験も進んでいて、最後に研究を詰めて論文に仕上げるところがボトルネックになっている。
活躍している研究者の長所は一人ひとり違う。それでも、自分の足を大きく引っ張る癖が少ないという点では、どこか「みな似ている」。だから、上手な人を見たときには、「あの人にはあって、僕にはないものは何だろう」に加えて、「僕にはあって、あの人にはない、足を引っ張る癖は何だろう」と考えてみる。焦ると、つい成果の出やすい得意分野に時間を使いたくなる。そんなときほど、周りの指摘にも耳を傾け、自分がつまずいているところに腰を据えて取り組みたいものである。
制約理論
「幸福な家庭はすべて互いに似かよっているが、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが異なっている」とは、トルストイによる作品、アンナ・カレーニナの冒頭である。このコラムで家庭論を論じるつもりはないのだが、制約理論を良く表現したものだと思った。
さて、制約理論 (Theory of Constraints) とは、イスラエルの物理学者エリヤフ・ゴールドラット博士が提唱した、組織やシステムの全体最適化を目指す経営・マネジメント理論である。曰く、
1. 全体はもっとも弱い部分で決まる:どんなに他の工程や部署が優れていても、全体の成果(スループット)は「ボトルネック(制約条件)」の処理能力によって上限が決まる
2. 局所最適の回避:個別工程の効率だけを上げても全体は良くならないため、ボトルネックに集中して改善を行う。
というものである。
例えば、レストランを営業していて、店の回転率をもっと上げたいと考えたとする。店には決まった数の座席があり、客のオーダーを取る、料理を作る、料理を運ぶ、最後に代金を受け取るといった複数の工程を通して、店は回っている。ここで店全体の回転率を上げようとするときには、「どこがボトルネックになっているか」を見極めなければならない。例えば、出来上がった料理が客席に運ばれていないことが問題なら、他の部分をいくら効率化しても、そのボトルネックが解消されない限り、店全体の回転率は上がらないのである。
ここでポイントになるのは、「ある理由」よりも「ない理由」に注目することである。うまくいっている店についても、「客の回転率が上がる理由がある」という見方に代えて、「客の回転率が悪くなる理由がない」という見方をする。うまく回っている店を見ると、つい「何が特に優れているのか」を探したくなる。でも、注文を取った後も、料理が出来上がった後も、客を長く待たせるところがない。それもまた、店がうまく回っている理由なのだと思う。
論文を書く場合
例えば、研究者にとって、論文を書くことは非常に重要な仕事の一つである。では、論文を書くまでにどういった工程があるか。まず、分野の動向をサーベイし、これから取り組む研究のリサーチクエスチョンを立てる。その上で実験をデザインし、実際に実験を行う。解析と議論を通して得られた成果を論文にまとめ、投稿する。こうした複数の工程を経て、ようやく論文が出版される。
僕自身、うまく論文を書けないとき、その理由は最後の「論文を書く」という工程にあると思っていた。しかし、経験を積む中で、多くの場合、ボトルネックは先行研究をレビューしたり、リサーチクエスチョンを立てたりするところにあると分かってきた。このように、論文を書くという仕事を一つ取り上げてみても、目につきやすいところに理由があるとは限らない。一連の工程のどこにボトルネックがあるのかを見極める必要がある。
おそらく、こうした構造はいろいろなところにある。僕自身の話でいえば、昔、テニスで強くなろうと思ったとき、苦手だったバックハンドを最低限のレベルまで引き上げることを最初の課題にした。いくら他の技がうまくなっても、極端に苦手なところが一つあれば、そこが足を引っ張って試合には勝てないのである。制約理論の考え方でいえば、僕にとってはバックハンドがボトルネックだった。このように、極端に苦手なところに注目し、そこを最低限のレベルまで引き上げることは、多くの場合、その制約を乗り越えるために必要なプロセスである。
研究者の場合
これは、研究者についても同じことが言える。今、僕はムーンショットというプロジェクトを率いている。30数名の研究者の方々に、それぞれの研究の代表者として参加していただいている。その方々の多くは、自分の足を引っ張るような癖や極端に苦手なことがなく、その上で総合力が高く、それぞれに長所があるように見える。
例えば、ミーティングでの報告がうまい。人を巻き込むのがうまい。我が事意識が強い。報告書をまとめたり、図表を作ったりするのがうまい。状況の見える化がうまい。報連相がうまい。リスクをコントロールし、大きな問題になる前に周囲に共有できる。メールやメッセージの書き方が簡潔で分かりやすい。こうして一つひとつを挙げてみると、誰にでもできるような当たり前のことを、当たり前のようにこなしている方が多いのである。例えば、心配なことがあれば、まだ小さいうちに知らせてくれる。だから、一緒に仕事をしていて、「そこまで困っていたなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」ということが少なくなるのである。
一人ひとり、研究者としての長所は違う。そして、長所のない研究者はいない。それでも、自分の足を大きく引っ張るような癖がないという点で、活躍している研究者は、「みな似ている」のである。
当然、制約理論のボトルネックという考え方は、組織の運営にも使える。というか、そもそも制約理論は、そうした組織のためのものである。
例えば今、僕たちの研究室で論文がなかなか出ないのは、最後に研究を詰めて論文にまとめるところがボトルネックになっているからだと思っている。研究のアイデアは十分に出ているし、実験も進んでいる。そこから論文に仕上げるという最後の工程が、今の研究室の制約なのである。だから、ラボとしては、その最後の工程を進めるために力を使う。同じ「論文が出ない」でも、力を使うべき場所は違うのである。これが、ボトルネックという考え方を研究室の運営に生かすということである。
ではなぜ制約・ボトルネックに取り組めないのか
これにはいくつか理由があるように思う。
一つは、ボトルネックとなっている苦手分野を潰すのはpainfulだからである。そもそも、なぜ苦手なままなのか。多くの場合、そこには「苦手だ」「好きではない」という気持ちがあって、時間をかけてこなかったという事情がある。一方で、得意なことに取り組むのは、自分にとって楽しいし、快適である。だから、苦手分野を潰す前に、つい得意なことにばかり時間を使ってしまう。そういうことはよくあるように思う。
自分のボトルネックを潰そうと思うと、それなりの期間、成果が上がらない中でも努力を続ける必要がある。特に焦りがあるときは、目先の成果を求めたくなる。そういうときほど、本質的なボトルネックに取り組むのは難しくなるように思う。また、本人が過去の成功体験に頼っている場合もある。他にも、思考の癖や強いこだわりがあって、自分の苦手分野や制約に目を向けにくくなっていることもある。
僕自身がボトルネックに目を向けるようになったのは、受験勉強や、テニスで勝とうと試行錯誤した経験が大きいように思う。例えば勉強であれば、同じ時間をかけるなら、得意分野の点数を伸ばすよりも、苦手分野の点数を伸ばす方が効果は大きい。人生でも同じように、まず極端な苦手分野を潰さないと、そもそも土俵に上がれないのだと、あるとき気づいた。そうした苦手分野に取り組んでも、3か月から半年くらいは芽が出ないのが普通である。スポーツをしていると、こういうことはよくある。そういう経験を重ねていると、「3か月から半年くらいは芽が出なくても、じっくり腰を据えてやってみよう」と思えるようになる。逆に言えば、新しいツールを使ってみたり、何か新しいものを買ってみたりしても、そういった小手先の工夫だけで大きな成長が得られることは、基本的にはないのだと思っている。
仕事でも、教育でも、研究でも、プレゼンでも、上手な人の姿を見ていると、どうしてもその人の長所に目が行ってしまう。ただ、自分が同じようにやろうとしたとき、成長を妨げているのは、その人の長所とは別のところにある、自分自身のボトルネックであることが多い。よく「素直な人は伸びる」と言われるのも、このことと関係しているように思う。素直な人は、周りからの指摘を受けて、自分はどこでつまずいているのかを振り返る。そういう習慣があるから、よく伸びるのだと思う。
「ないがある」≠「あるがない」
ドイツ語ではこの二つを意識して使い分けている、という話を昔聞いた。詳しいことは覚えていないが、この区別が、ドイツで哲学が発達した理由の一つではないか、という話だった。
しかしこれは、身近な経験でも良く起こる。例えば、夜8時に子どもが「おやつを食べたい」と言うと、僕は断る。すると彼は「なんでおやつを食べてはいけないのか?」と聞いてくるが、その答えは、「おやつを食べてはいけない理由がある」のではなく、「おやつを食べて良い理由がない」のである。この二つは大きく異なる。
活躍している研究者を見ていると、つい「あの人にはあって、自分にはないものは何だろう」と考える。でも、ときには逆向きに、「自分にはあって、あの人にはない、研究の足を引っ張る癖は何だろう」と考えてみてもいい。そうやって初めて気づく、自分のボトルネックもあるように思う。「ないがある」と「あるがない」の違いを意識することが、ボトルネック・制約に気が付くきっかけにすることができるように思う (※余談)。
余談: そうではないものを、敢えて考える
余談ではあるが、ある対象について考えるときに、あえて「そうではないもの」を考えてみるというのは、おそらく哲学的思考の鉄板である。
例えば、言葉は何を指しているのだろうか。「みかん」という言葉を考えてみる。絵の中のみかん、実物のみかん、皮をむいたみかん、果汁になったみかん。こうして並べてみると、何を「みかん」と呼ぶのかを具体的に考えるのは、実は結構難しい。そこで、「どこまでいったら、もうみかんではないのか」と考えてみる。例えば、果汁にまでなったら、もう「みかん」とは呼ばない。こうして「みかんではないもの」を考えると、みかんとそうでないものとの境界は見えやすくなる。言葉が指しているのは、ある対象そのものというより、その対象と他のものとの境界である。そういう考え方が、このあたりから出てくる。
このあたりの話は、内田樹の本などによく出てくる。僕自身、印象に残っているのは、「それが何か」を考えるときには、「それが何でないか」を考えた方が早い場合がある、という趣旨の一節である。こうして、あえて「それではないもの」を考えてみることも、対象の本質に迫る一つの方法なのだと思う。
