完全な自己満足ですが、どこかで悩んでいる人の助けになるかもしれないシリーズ。

時系列としては研究員編の前なのだが、研究員編の後に書いているので、多少の重複があります。

2004年・高校生編: 

18歳の春に京都大学の工学部・地球工学科に入学した。少しその前から話を始める。

京都大学を目指した理由は、あまり良いものではない。何かを学びたいというよりは、成績を順番に上げていった時に、たどり着いたところが、この学力だった。 高校三年生の春まで、高校ではソフトボール部に所属し、毎日運動に明け暮れていた。 所属していたソフトボール部は、ランニングや体力を重視するという風潮があり、毎日3キロのランニングを行っていた。 当時は、そのランニングは嫌でしょうがなかったのだが、これで培った体力は後々生きてきたように思う。 高校2年生の春に、なんとなく本屋に立ち寄って、Z会が出版している京大数学という参考書を、確か1000円だったのでふと買ってみた。 その第一問があまりにも難解すぎて、びっくりしてしまったのだが、こういった問題が解ける人もいるんだということが、少し勉強に興味を持ち始めたきっかけの一つだったように思う。 当時はそれほど高い学力ではなく、なんとか四国からは出たかったので、岡山大学や広島大学、あわよくば神戸大に行けたらいいなぁと思っていた。

高校3年生に5月に部活を終えてから、勉強にするようになって、徐々に成績が伸びてくるようになった。実際には、本当に成績が上がり始めたのは8月か9月だったようなものが、これまで勉強してきたことが徐々に繋がり始めてくるという感覚があった。当時は、何かを集中的に勉強して次に行くという方法を取っていたので、数学では8月9月までは数学、10月からは物理と化け学といった形で勉強を進めていた。

高校生までの人生は、高知県でのんびりしたものだったが、それでも今でも人生で生きている3つの物事の捉え方を獲得した。

1つ目は、「何かを始めてから実際に成長を感じるまでは3ヶ月から半年ぐらいかかるだろう」という感覚である。なにか新しい物事を始める時には、その芽が出るまでは3ヶ月から半年ほどは努力し続けなければならないと、今でも思っている。これは、ムーンショット・気象制御研究の動かし方であったり、研究室の活性化・発展であったり、自分自身の科学者としての成長であったり、難しい研究テーマといった多くのところで、よく思う。何か新しいことに試してみて、そのゲインを得るには3~6か月は成長を感じられないので、まずは信じて努力を重ねる、といった価値観を獲得することになった。

2つ目は、「成長は徐々に起こるものではなく、何かきっかけ、コツをつかんで急激に起こる」というものである。 これはまずスポーツで体感した。小学校の時の野球のボールの捉え方、高校で遊んでいたバスケットボールでダブルクラッチをするための空中での腰の入れ方、ソフトボールの投手の配球の読み方、といったコツを、何か一つのきっかけを試行錯誤の中で見つけ、そのきっかけを見つけた時に常に自分の中の見え方や体の動かし方がわかるという感覚があった。 同じように、大学受験に向けた勉強でも、最初は数学の勉強、素因数分解であったり、幾何学といったものは、一つ一つがよくわからないものを勉強していたが、夏ぐらいから、代数と幾何というものは、同じ物事を別の角度で似ているんだなという感覚・コツをつかみ始めた。 また、大学受験の勉強は、最終的には、数学、物理、化け学といったものは、特に明確な境界があるわけではなく、化け学と物理の間も非常に曖昧だし、物理と数学っていうのは非常に密接に関わっているということが、なんとなくわかってきた。

また、幼少期における親からの価値観の刷り込みというものは、非常に強いもので、大学に進学して高知県を離れるまでに学んだことは多い。その中で今でも大事にしている3つ目の価値観は、「迷ったら困難な道を選べ」という考え方である。 これは父親がよく言っていた言葉で、「人間は本来怠惰なので、いくつかの選択肢で迷うことはある。そういった時に、困難な道を選んでおけば、まず間違いがない」とよくいっていた。この考え方は、自分が判断に迷う時の一つの指標にしてきたものだが、40歳に近づいて今思うのは、非常に合理的でもあるということである。 多くの場合、人間は短期的な最適解を考えて合理的な選択をしようとするが、その短期的な最適解というものが、必ずしも長期的に最適であるとは限らない。長い目で見た時に、自分自身を成長させることが一番の合理性であり、その観点では困難な道を選んで、自分が成長するような状況に置くということが、長期的には有利だという行動指針なのだと思う。

大学受験は非常に楽しいものだったが、最終的には数学や物理が得意になってきていたので、数学・物理を活かせる分野に進もうと思った。ただ、多感な高校生の時に、親戚が重い病気を患うという経験があった。その経験も自分の中では大きく、前期試験では医学部を受験した。 自分の成績では合格できるかどうかギリギリというところだったように思うが、この道に進む方がいいかどうかは、何らかの意志が決めてくれるんじゃないかと思った。その医学部の受験は失敗し、当時あった後期試験で京都大学の工学部に進学した。 理由は、数学物理を活かせるということと、地球工学科という名前に憧れたからである。人間の医者にはなれなかったが、どうせやるなら地球のお医者さんを目指そうというアバウトな考え方で大学に進学した。ということで、進学した学科は当初の第一希望ではなかったのである。人間万事、塞翁が馬。

2005年・大学入学 ~ 研究員配属: 人間万事塞翁が馬

18歳の春に京都大学に入学した。

大学に入学した最初のオリエンテーションで衝撃を受ける。それは、地球工学科という名前だが、これは本質的には土木工学だよという教員のアナウンスである。 恥ずかしい話だが、そこまでしっかりと勉強できる内容を考えずに進学先を選んでしまった。 ただ土木工学というものは、後から振り返ると良い学びをしたと思っていて、社会における実際の問題を解決するためには、数学や物理だけではなく、倫理学、哲学、経済学、心理学といった社会科学の要素も含めて勉強する必要がある。 土木工学では、一つ一つの学問分野においては経験関数みたいなものがよく使われるのだが、こういった幅広い分野を抑えるということは、自分自身の特性にも合っていたように思う。

大学の勉強は正直なところ難しかった。高知県を出るまでは、自分自身は数学や物理はそれなりに得意だと思っていたが、大学に入って勉強を始めると、学問の勉強に関しては自分よりも遥かにできる才能を多く見た。大学における数学や物理の勉強というものは、数式を解けるというよりは、概念を理解できるといった感覚に近いように思う。 つまり、抽象的な思考をどれぐらいできるかという話である。 そういった観点で、自分よりも優れた才能が多くいるという時は、大学に進学して直ぐに身に染みた。

入学当初は、地球工学科で、宇宙太陽光発電という分野に興味を持ち、 人工衛星を使用した地球規模の研究をしたいと思っていた。 この時、地球規模の研究、人工衛星の研究をしてみたいというふんわりとした希望は、その後自分の中ではいったん忘却していくのだが、 最終的に千葉大学の人工衛星の研究センターに着任することになるので、自分の中に持つふんわりとした興味や好奇心というものは、 なんらか人の人生を導いていく指針になるのだと思う。 その時の希望はさておき、大学の教員は土木工学の教育というものに熱意を込もっていて、土木の面白さ、世の中の問題解決の重要さということをよく語っていた。特に、どの先生が言っていたか忘れたが、「能力がある者はその才能を国のため、より大きな社会のために使わねばならない」というノブレス・オブリージュという言葉は、自分の中に刺さり、もし自分にできることがあるのであれば、この社会を良くするためにその力を使いたいと思うようになった。そのようなこともあり、土木の中で選択可能な資源コース、環境コースではなく、本家本物の土木コースに進学することにした。

とはいえ、当時はあまり褒められた学生ではなく、勉強よりもテニスで大学の代表を目指して練習や試合に打ち込むという生活を送っていた。 3年生か4年生に上がるときに研究室を決めるのだが、その時もテニスコースがあるという理由で、宇治キャンパスにある研究室を志望した。 土木の中では、計画工学、土質力学、構造力学、水理学といったものが主要な4分野になるのだが、その中で水理学と計画工学に興味を持っていたので、その両方を勉強・研究できる河川計画学を勉強しようと思った。 第一志望の研究室は、残念ながら配属のじゃんけんに負けてしまったので、第2希望だった研究室に入ることになった。ということで、進学した研究室は第2希望だったのである。人間万事、塞翁が馬。

2009年・大学院修士 ~博士進学: 人間万事塞翁が馬、その2

卒業研究は苦しかった。 今、自分が主催しているラボと比較すると、研究のスタートの円滑さといった配慮は、当時の多くの研究室ではあまりなく、先輩にかじりついてなんとかせよといった文化であった。 自分の卒業論文の研究テーマは、タイのチャオプラヤ川における流出計算、特にダムの操作によってどう自然流量が変わっているかということを調べる研究だった。 先輩が作っていた河川流出シミュレーションモデルをベースに、ダムの操作を入れ込んだりといったことをしていたのだが、当時の自分にとっては魑魅魍魎のプログラム群と向き合い、なんとかそれをプロセスを理解するといったことをしていた。 また、当時のシミュレーションモデルには、最初の段階でループの順番を入れ替えてしまうというバグを仕込んでしまい、 夏に仕込んだそのバグは最終的に卒論の提出1日前に発見された。 そのため、最後の最後になって正しい結果が出てきて、最後は36時間続けて作業して卒業論文を書き上げた。 この卒業論文書き上げの苦しさというのは、今でも骨身に染みていて、二度とこんなに追い込まれたくないという痛い経験になった。

大学院に入り、研究と並行しつつ、就職活動を頑張った。 進学当初は、基本的には就職するつもりで、金融系であったり、外資系といった文系就職も視野に就職活動をしていた。 いくつか気に入ってくれる企業もあったりしたので、就職しようと思えば就職できるんだろうという安心感は得られた。 最終的には、シンクタンク、国土交通省、博士課程で迷うことになった。 ここで、当初想定していなかった博士課程というオプションの理由は、研究が楽しくなってきてしまったということに尽きる。 当時は、サイエンスが楽しかったというよりは、自分で試行錯誤してプログラミングしてみたり、電球の衛星データを使って農業の状況を把握するといった活動が、パズルのようで楽しかった。

シンクタンクという選択肢は、残念ながらインターンの最終選考に落選してしまったことで、選択肢から消えることになった。 これでもし就職が決まっていれば、自分はシンクタンクに就職していたかもしれない。人間万事、塞翁が馬。また、国土交通省という選択肢は、就職活動をしている2009年に民主党に政権が変わったことで、コンクリートから人へという標語が謳われており、国土交通省の仕事は相当苦しくなるだろうということを、 先輩から聞いていた。また、そういった政権の変化というものだけではなく、国土交通省のOGを訪問していて、なんとなく自分自身のキャリアが見える気がしたので、 一度しかない人生をそういった安全側に振るのはもったいない気がした。 もともと小槻は臆病な人間なので、例えば、ロールプレイングゲームなどのゲームでも、最初から攻略本を見ながらクリアするということをしていた。ただ、一度しかない人生で、そういった攻略本を見ながらと歩む人生は、自分が死ぬ時に後悔するのではないかと思っていたのである。

一方で、博士課程というのはリスクでもある。就職できるかもわからないし、自分自身に大学のポストを取れるだけの実力があるかは、誰にも分からない。何せ、まだ修士1年生で、査読付き論文も1本もない状況である。また卒業研究は、お世辞にも良いものではなかったので、自分自身に研究の才能があるかということもよくわからなかった。 ただ一方で、プログラミングといった普段の研究活動は、パズルを解いているような感覚で非常に面白かった。なので、パズルを解くような楽しい仕事を一生の仕事にできるのであれば、とても幸せなことじゃないかなと思った。 結局のところ、面白さとしては、博士課程の進学が面白そうに見えていたが、そこには当然リスクがつきまとうため、その面白さとリスクの間で最終的な判断を迷ったように思う。

最終的に博士進学を決めた判断の軸はいくつかあったように思う。一つは、「迷ったら困難な道を選べ」という父からの教えである。 当時、博士課程進学の方が困難な道であることは目に見えていたので、その道を選んだ方が人生を楽しめるのではないか、いうことで一つの判断基準になった。 二つ目は、別の研究室で水文学を教えていた、椎葉充晴先生に聞いた「見る前に跳べ」という言葉である。当時の京都大学水文グループの、卒業性追い出しコンで、椎葉先生の隣に座る機会があり、博士課程進学を率直に相談した。 いろいろとアドバイスをしてくださったが、「見る前に跳べ」という言葉は非常に心に刺さった。どれだけ跳べ先を見てリスクを算定しても、結局は心は決められない。これはバンジージャンプなどにも通じる感覚だと思ってて、考えれば考えるほど、行動できなくなってくる。なにか自分なりに大きな決断をしようとするときは、敢えてリスクやPros/Consは考えずに、自分の心に従え、ということだと理解した。何かに迷っているときは、どちらかが正解なのではなく、どちらも同じくらい魅力的な選択肢で、あとは選んだ選択肢を正解にするのは自分次第なのだと思う。

そんなこんなで、博士課程に進学することに決めた。 そうと決まれば、そこにエネルギーと情熱を注げるのみである。 修士2年の5月には最後の大学代表を目指す大会にも敗退し、エネルギーは自然と研究に向くようになった。 幸い、高校生からの蓄積で体力だけはあったので、膨大な時間を研究に捧げたと自分でも思う。 週に5日ほどは研究室に泊まり、朝から晩まで研究に時間を捧げていた。研究室には炊飯器があったので、お米を持参し、研究室で納豆ご飯をよく食べていた。多くの寄り道や非効率的な無駄足も踏んだのだが、それらも含めて自分の今の蓄積になっている。 例えば、寄り道して勉強した構造主義という哲学は、今の研究室の運営・問題解決に非常に役立っている。 行動経済学、行動心理学といったことに関するつまみ食いは、いずれ自分の研究に来てくるんじゃないかという感覚がある。

修士2年の研究では、査読付き論文の発表と優秀修士賞の獲得というのを目標に置いた。その二つが得られれば、自分自身が博士課程でもやっていけるだろうというお墨つきをもらえるような気がしたからである。 査読付き論文は、当時9月に水工額論文の締め切りがあり、自分なりに試行錯誤して論文を発表することができた。また、当時の都市社会工学専攻はおそらく80名ほどだったと思うが、トップの3つの研究が優秀修士論文賞として表彰される文化があった。 これを目指して研究、発表に時間を割き、幸いこちらの賞で表彰していただくことができ、自分の中でも一つ成長できたかなという実感を得た。

そんなこんなで、無事に博士に進学する。当時はまだ、井の中の蛙である。

2011年・大学院博士: 人間万事塞翁が馬、その3

博士研究は楽しくかった。当時はまだサイエンスという感覚が踏み落ちてきていなかったので、自分自身が修士課程から取り組んできた全球陸域水循環モデルを少しずつ改良するということに力をかけた。 例えば、ダム操作であったり、衛星データを使った灌漑地の推定であったり、農事歴の推定であったり、気象強制力の不確実性評価といったことをいろいろと試行錯誤して、河川流量などの観測データをよりよく説明できるようなモデル改良を行っていった。また、環境変に似た花崎先生がおっしゃっていた、年の2回は水工学論文を書いて自分なりのリズムをつかんだ方がいいというアドバイスは忠実に守り、毎年日本語でも論文を書くようになった。これは、研究を1つ1つ仕上げて完成させる、良いトレーニングになった。

指導教員だった田中賢治先生の厚意で、いろんな経験をさせて頂き、見識を広げることができた。 例えば、海外の現地調査であれば、エジプト、タイ、ウズベキスタン、ベトナムといったところでの現地の水の使い方、川の流れ方といったことを学ばせていただいた。 また、フランス、タイ、韓国、中国、シンガポールなどの国際会議にも参加させていただき、そこで様々な国の学生との交流を得ることができた。 特に当時は歴史や宗教といったことに関心があったこともあり、いろんな国を訪れて、その現地の学生や若い研究者とがどんなことを考えているかと議論し、知っていくことが楽しかった。これらの活動や経験は、博士課程の研究に直接繋がるものではないし、また、現時点の自分自身に何か直接的なメリットがあったかというとよくわからない。 しかし、こういった回り道をすることで、自分自身の中に多様な視点、多様な物事の見方を獲得していったように思う。人間万事、塞翁が馬。

博士2年の時には3ヶ月間、ドイツのフランクフルト大学に留学させてもらった。 フランクフルト大学のPetra Doll 先生は直接面識はなかったが、業界では非常に有名な先生だったので、直接アポイントを取り、 3ヶ月間の滞在経験を許していただいた。フランクフルトの研究室には、正直貢献はできず、自分の中では失敗体験となった。しかし、ドイツの生活、ドイツでどんな研究室がされているか、どんな留学生が研究をしているか、 教授と博士課程の学生がどんな議論をしているか、ドイツ人の歴史観といったことを知り、自分の中にまた新しい物差しが一つ増えした。また、せっかくの機会だったので、週末は毎週旅行に出かけた。 フランス、オーストリア、スイス、ポーランド、チェコ、デンマークといったところに出かけ、その土地土地の文化を経験を通して知ることができた。年末~正月の1日だけは、ホームシックになり、1つだけ持参したカップラーメンを食べた。