
完全な自己満足ですが、どこかで悩んでいる人の助けになるかもしれません。
1996年・12歳頃: 前前史
38歳時点で、小槻は活動的に生きていると思う。最近、小・中学生向けの講演をする機会があり、自分自身の過去を振り返る中で、自分自身のエネルギーの源泉がわかった気がしている。それは、自分自身の生物学的死への恐怖である。
今はそれほどでもなくなったが、小学生の高学年~中学生くらいの時は、自分がいつか死ぬというのが堪らなく怖かった。自分がいない、思考していない、ことすら認識できない、という状態が恐ろしく怖かった。みんなそんなものかと思っていたが、どうもそうでもないようである。
結局、その恐怖は、「生物学的に死ぬことは避けられない。ならば、せめて自分が生きた証を残そう」という考えに落ち着いていった。今現在も、なにか後世に残る仕事を残したいと思って頑張っているが、エネルギーの源泉は自らの死への恐怖にあるのだと思う。
2010年・23歳頃: 前史 - 博士進学を決める
2008年に学部4年生に進学したが、不真面目な学生だった。当時はテニスの大学代表を目指しており、研究よりもテニスに打ち込んでいた。ちなみに、この大学代表の目標は、良いところまで行ったが果たせなかった。その時の後悔は強く、今でも夢に見ることがある。その後悔は、負けたことへの悔しさではなく、努力を尽くせなかったことにある。なんで毎日ランニングしなかったのか。本当に自分は、結果を出すためにベストを尽くしたのか、ということへの後悔である。研究者としては、この後悔は今にも生きている。予算獲得のプレゼン前には相当時間をかけて準備しているが、「ベストを尽くさずに後悔したくない」という気持ちが今にも残っている。
大学院に入り、急に研究が楽しくなってきた。プログラムの技術が上がり、できることが増えてきたのが大きかったのだと思う。このころ就職活動にもちゃんと取り組んでいた。金融・コンサルといった文系就職も視野に入れていたが、結局、国土交通省に就職するか、博士に進学して研究者を目指すか、という2択になった。その候補が残ったのは、「自分の仕事が、大きく世の中に残せる可能性があるから」である。
博士進学を決めた理由は大きく2つある。1つ目は、研究が楽しくなってしまったからである。当時、サイエンスの感覚はよくわからず、単純にプログラミングを楽しんでいた。ギリギリ解けそうな知恵の輪で遊んでいる感覚で、これが仕事になるのであれば超幸せじゃん。と呑気に思っていた。また、研究には歴史的な仕事を残せる可能性があり、それが個人の名前として残るのは魅力的だった。
もう1つの理由は、先が見通せなかったからである。自分に研究者としてやっていける能力があるかもわからないし、進学した後の姿は全く予想できず、不安だった。ただ、この「予想できない」を選んだ方が、人生を満喫できると思ったのである。高校生の頃、攻略本を見ながらRPGを遊ぶのが効率的で好きだった。だけど、攻略本つきの安定的な人生は嫌だと思った。当時、国土交通省にOB訪問で伺ったとき、先輩の話を聞いて、(失礼ながら)なんとなくキャリアパスが見えた。5年後、10年後の姿が予想できる気がした。一方で、博士進学した時の5年後は全く見えない。大変だろうし、苦労もするだろうが、苦み・辛さ・焦りも含めて人生だろうと思った。
テニスの目標が果たせなかったことで、そのエネルギーは自然と研究に向いた。住んでいた祖母の家が大学から遠かったこともあり、基本的に大学で寝泊まりし、5~6日に一回家に帰り、バッグに着替えを詰め替えて大学に戻るという生活を続けた。祖母には迷惑をかけた。
当時は効率的に研究は出来てなかったと思うし、世界的・科学的にも意義のある研究は出来ていなかった。ただ、膨大な時間は捧げた。つまみ食いもしたし、寄り道もしたし、海外調査も色々と経験させていただいた。これらの非効率・無駄は、後になって生きてくる。
2013年・27歳頃: 自分は科学をしているのだろうか?
博士学生の頃、利根川進・立花隆の「精神と物質」という本を読んで、ショックを受ける。利根川進、曰く、
「どうでもいい事をやっているのに、大事な仕事をしたつもりになって、一生を終えるサイエンティストが多い。」
「サイエンティストの大半は、どうでもいい事をしている人たちです。彼らはサイエンティストを自称して、サイエンスを飯の種にしているけれど、サイエンスの側からしたらどうでもいい人たちなんですよ。」
「科学で一番大事なのは、自分自身をコンヴィンスさせる事なんです。それが本質的かどうか、徹底的に考えることが大事です。」
自分のテーマ設定に悩んでいるタイミングで、ひどく傷つく。直観として、その時の自分が行っていたことが、「サイエンスを飯の種にしているけれど、サイエンスの側からしたらどうでもいい人」だと思えた。また何より、自分自身が、自分自身を納得させられていない事に気が付いたのである。
博士の時に、数本の英語論文は発表していた。ただ書いてる本人が、その英語論文は、世界の誰に届くんだろうという素朴な疑問を持っていた。サイエンスという世界の人が関わる社会活動の中で、無価値な論文を書いているんじゃないかという、「科学の中の孤独」みたいな感覚を覚えていた。関東の大学の学生たちが、「この研究はSivapalanがやっていて~」みたいな事を言っていて、世界と繋がっていそうな研究に羨ましさを覚えた。
時を経て振り返ると、そもそもの原因は、自分の好奇心に基づいた研究ではなく、「こういう研究をしたら論文になるだろう」という、誰かの評価を気にして研究をしていたことにあると思う。自分自身の採点表を、目に見えない誰かに委ねている状況だったのである。
結局、この悩みはいくつかの試行錯誤で邂逅されていくことになる。
1. 自分自身の採点は、自分自身でする (内的同期への変換)
2. 「経験科学」を理解する
3. ちゃんと科学をする。
1と2については後で触れるので、ここでは3について。結局、一度きちんとサイエンスをしないと始まらないと思って、学位を取った工学・土木分野から一度離れよう心に決める。
ところで、2013年だったと思うが、初めてリモートセンシング学会に参加した。そこに参加していた当時博士1年のとある学生と一緒にお昼を食べたのだが、彼は秋からアメリカに留学すると言っていた。「モチベ高いっすね」と聞くと、彼は、「いや、逆なんです。僕は怠惰なんです。だから、自分を成長させようと思ったら、厳しい環境に身を置いておくことが一番簡単なんです」と言っていた。以降、この考え方「自分はLazyなので、ちょっと厳しめの環境に身を置いておく位が丁度いい」はお気に入りになる。
当時の自己分析では、自分は研究室の主催者に向いているんじゃないかと思っていた。これは偉そうに言ってる訳ではなく、消去法的な選択でもあった。というのも、自分の特技は、物事をザックリ捉えて、それらを組み合わせるアイデアを考えられるところにあると思っていた。一方で、苦手なのは、一つの物事を深く考え、より彫り込んでいく所謂エキスパートとしての生き方である。大学でものちの理研でも、数学・物理・プログラミングが得意な人は周りにたくさんいて、その方面で彼ら/彼女らに勝てる気がしなかった。逆説的に、博士を取った後は、まず一度エキスパートにならねばならないと思った (ので、理研に行くことにする)。自分の性格的に、エキスパート性を身に着けなくても小器用に生きていける気がしたが、それだと決して大成しないと思ったのである。
また、当時の神頼みは、「自分が重要だと確信できる仕事を、研究者としてやり遂げられますように!」だった。その仕事が何かはよくわからないのだが、簡単に言えば「何者かになりたい」という焦りのようなものを抱えていた。人生をささげるに足ると思う研究テーマを見つけられるのは、ここからさらに時を下って36歳くらいになる。
2014年・28歳の春: 研究の議論が出来ない
2014年1月から、幸いにも、理研・計算センターの三好先生の研究室で特別研究員として働き始める。今は気象庁で働かれている大泉さんに繋いで頂いて、2013年5月に理研を訪問し、三好先生・大塚さん・近藤さんに研究相談をする機会を頂いたことがきっかけである。「陸面同化でこんな研究をしたいと思うんですが、どうでしょうか。」という相談をして、議論でボコボコにされた。防戦一方になりながら、なんとか自分の意見・考えを言っていたら、終わり掛けに「来年からうちに来て研究したら?」と言って頂けた。正直、完全に新しい分野 (気象学・計算科学)でビビったのだが、5秒考えて「お願いします」と答えた。何かを変えないといけないと思っていたのだ。後で振り返ると、ターニングポイントになる。
データ同化・数値予報は自分にとって新しい研究であり、ちゃんと勉強しようと思ってデータ同化は少しずつ数学の勉強を続けることにした。色んな文献を読みながら、自分の言葉と概念で理解できるようにノートにまとめて行った。今研究室のHPで公開しているデータ同化のスライドは、その積み重ねを改めてスライドに起こしたものである。また、気象の勉強もしたかったが、どうやって勉強したらいいか分からなかったので、気象予報士試験も勉強した。ダラダラと勉強してもしょうがないので、1発で取ると自分で決めて、毎日1~2時間勉強した。UCANの通信講座も使って、無事に1発で取ることができた。
ただ最初に困ったのは、「研究の議論が出来ない」ということである。一番最初の研究は、Lorenz 96モデルを使った同化順序論文 (Kotsuki et al. 2017; MWR) や、数値天気予報モデルNICAMと新しく上がった衛星GPM/DPRの比較研究 (Kotsuki et al. 2014; SOLA)だった。研究チームで、定期的にMTGをして頂いていたが、よく言われたのは「何を言ってるか分からない」だった。当時は日本人メンバーだけでMTGしていて、日本語で議論していたので、これは言語の問題ではない。後で振り返ると、これは、「仮説検証になっていない」ということを言われてたんだと思う。この作文をしているときに、自分でもMTGのスライドを見返してみたが、確かにひどい。38歳になった今、「何を言っているか分からない」を翻訳すると、こういうことなのだと思う。
(1) 何故そんな実験をしたかが分からない: なんとな~く実験をしていたので、その実験で何を出したかったのか、既往研究やこれまでの研究から何故その実験をしたのか、という仮説がない。
(2) 何が分かったかが分からない: なんとな~く結果を出して説明しているので、何が分かったのか、何を議論したいのか、が分からない。何を検証しているのかが分からない。
後になって、自分で研究室を持ち、今度は自分が研究を指導する側になって同じことが起こった。今研究室のMTGでは、最初にテンプレートとして (1) これまでの研究、(2) 前回の指摘、(3) 今回の進捗、(4) 分かって無い事・議論したい事、(5) 次回までの計画、として1枚でまとめてもらっていますが、このテンプレート化は自分自身の苦しみから来ています。
「何を言ってるか分からない」を、自分がどの様に解決したのか、今となっては分からない。自分の中では明確なターニングポイントはなかった。三好先生や先輩との議論の中で、少しずつ邂逅していったのだと思う。2014年のデータ同化研究チームには、大塚さん・寺崎さん・近藤さん・Guo-Yuanといったスーパーマンな先輩が揃っていて、正直自分は足を引っ張っていて焦燥感が募っていた。だけど、せっかくデータ同化チームにいるんだから、ここでされている研究は全部理解しようと心がけた。実験デザインや、結果の解釈、なんでこの図を作ろうと思ったのか、なんで参考にした既往研究を知っているのか、といったことを聞いて、先輩の目を盗もうと思った。MTGについては、上手くいかなかったときに、MTGへの持っていきかたのどこが悪かったのか、大塚さんからフィードバックしてもらった。何かドラマティックなことが起こったわけではなく、小さな努力を重ねたのだと思う。
ちょっと脇道にそれるが、(多分頑張ってることを認めて頂いて) 2014年5月にアメリカで開かれたアンサンブルカルマンフィルタ・ワークショップに連れて行って頂いた。これが、本当に嬉しかった。Eugenia Kalnay、Fuqing Zhang、Jeff Whitaker、Peter Houtekamerといった、データ同化の勉強をしていて「論文で見たことある!」人と、たくさん出会えたからである。論文の中で知っていた研究者が、自分のポスターに来て議論してくれる、ということに感動した。博士の時には、論文を書いていても世界と繋がっている感覚を全く持てなかったのだが、この時に初めて世界との繋がりを実感できたのである。この時、科学における孤独、という感情が解消された。(今、研究室でISDAなどに行けば、学生・研究員の皆さんも、論文で見たことがある人に出会えると思います。これは、当たり前じゃないんです。少なくとも僕は、研究員になるまでは得られなかった感覚です。)
2015年・29歳: 全球天気予報、始めました
2014年の8月から、全球天気予報システム・NICAM-LETKFを使った研究を始めることになる。当初、理研では陸面データ同化をするつもりだった。ただ、三好先生の持たれているJAXAプロジェクトに参加させていただき、2014年8月の会議の飲み会 (二次会)で、「小槻君、NICAM-LETKFやってみない?」と(おそらく酒の勢いで) 提案頂く。天気予報モデル怖い、スパコン怖い、並列計算怖い、といういくつかの気持ちがよぎりましたが、5秒考えて「やります!」と答えた。新しい事を始めるチャンスだと思ったからです。後で振り返ると、ターニングポイントでした。
とはいえ、気象モデルの全容もつかめない、データ同化 (LETKF) のコードも膨大で分からない、スパコンの使い方にも慣れない、という分からなことづくめで大変に厳しかった。また、NICAMならではの正20面体格子の取り扱いがかなりトリッキーでそれにも苦労することになる。
最初の研究は、JAXAの全球降水マップGSMaPにガウス分布変換をして同化し、NICAM-LETKFの天気予報を改善するという研究だった。2014年9月に研究を開始して、11月に先輩の追試 (NICAM-LETFK)に成功するものの、GSMaPの正二十面体格子への変換が遅々として進まない。そんな中、11月ごろには2015年2月に行われる、国内のデータ同化ワークショップの口頭発表が決まり、退路を断たれて追い込まれていく。このワークショップは、log変換で雨を同化するというところまで行って、お茶を濁す。しかし、ガウス分布変換の実験が成功しない。
ガウス分布変換自体は、2015年の1月には完成し、京コンピュータにも実装出来ていた。しかし、データ同化サイクルを回しても気象予測が改善しないのである。募る焦燥をわき目に、2015年7月・北京の国際会議での口頭発表が決まる。共著者であるEugenia Kalnay先生も参加されるとのこと。焦燥が募る。しかし、実験が成功しない!
2015年4月の時点では、ガウス分布変換は正しく実装できて、想定通りに同化できているだろう、という確証は持てた。しかし、何度やってもデータ同化サイクルで天気予報が改善されない。5日くらいのサイクル実験は上手くいくのだが、その先が改善しないのである。当時の京コンピュータでの僕の実験は、概ね3時間くらいの待ち時間で、計算は6時間くらいの実験だった。朝、職場で結果を確認し、上手くいってないことを確認し、検討を加えて11時くらいにジョブを投げる。夜、結果を確認し、検討を加えて23時くらいにジョブを投げる。また次の日、同じことを繰り返す。来る日も来る日も、朝も夜も失敗の実験と向き合う。おそらくそれを、4~5か月繰り返した。何度やっても失敗するので、心も折れそうになる。しかし無情にも実験は失敗する。関係ないのだが、STAP問題で野依理事長の発した「研究者失格」という言葉が脳裏によぎる。
何度も何度も失敗を繰り返した最後に、北京に出発する前日に、「もしかしたら共分散膨張かもしれない」と思った。そこで、動的共分散膨張ではなく、共分散緩和法を実装して、飛行機の前にエイや、とジョブを投げる。北京で確認すると、ちょっとバグがありそうだった。最後に修正して、えいやっと祈りと共に夜中にジョブを投げる。発表は翌日の午前10時である。このジョブが失敗したら、もう助からない。翌日、朝7時に起きて結果を確認する。
き、、、、、、、きっっったーーーーーーー!
成功した。湯気がみえそうなくらい出来立てほやほやの結果を持って、北京の国際WSの発表は無事に終了する。発表のあと、Kalnay先生が「Conbgraturations!」といってハグしてくれた。うるっとした。
後で振り返ると、失敗の理由は分かる。それは理由は誤差相関である。衛星データが誤差相関を持っており、その相関を考慮して間引きを出来ていなかった。だから動的共分散膨張が機能しなかったのである。半年間の間捧げられた膨大な失敗の果てに、小槻はついに悟る。数学に基づいて実験を検証し、実験をデザインすることの重要さを。数学的に無理なものは、どんなに押しても引いても、無理なのである。
ここで、研究で大事なのは、「実験デザイン」ではないかと気づき始める。そういう目で学会・シンポジウムなどの優れた研究者の発表を見始めると、彼/彼女らは実験デザインがうまいことに気が付き始める。何か問いがあったときに、その本質を抜き出し、その問いに答えられるような実験をデザインするのがうまいのである。
2016年・30歳: 小さいアイデアを出せるようになる
GSMaPの同化研究をまとめながら、NICAM-LETKFの共分散膨張に取り組むことになる。当時、Miyoshi (2011) の動的共分散膨張を使っていたNICAM-LETKFだが、時々不安定化して実験が落ちることがあった。寺崎さんの報告で、これは共分散膨張が犯人だろうということも分かっていた。
GSMaPの同化で共分散緩和法 (RTPP) を実装したこともあり、小槻がこの研究に取り組むことになる。どうせ取り組むなら、別の緩和法 (RTPS) も併せて実装し、また、その動的パラメータ推定もしたいと思った。当時、PSUのグループでadaptive RTPSが提案されていたので、それをNICAM-LETKFに実装した。adaptive RTPSの式を眺めながら、何とかRTPPもadaptiveに出来ないかなぁ、と考えていた。ルーズリーフに式を書いてあれこれとこねくり回していると、できた。その導出は、Kotsuki et al. (2017; QJRMS)のappendixひっそりと書かれているが、自分で初めて新しい導出を考えて、それを世に残せたことが嬉しかった。また、計三回REJECTをくらったLorenz 96の同化順序論文も、EFSOを使ってより良い順番を見つけられることが分かり、論文として世に残すことが出来た (Kotsuki et al. 2017; MWR)。
この辺りで、「どんな研究でも、ちゃんと深く考えれば自分のアイデアが出せて、世に出せるのではないか?」と思う様になってきた。当時、JAXAのプロジェクトがメインエフォートであり、プロジェクトではどうしてもお仕事的な研究も出てくる。それでも、ちゃんと取り組めばサイエンスに出来るのではないか?と。共分散膨張も、同化順序論文も、単純にそれだけ実装しても論文に出来るテーマではなかったが、進める中で、新しいポイントを自分で見つけられたことに安心した。これは、当時のJAXAプロジェクトの飲み会で、理研の富田チームリーダーが、「モデル開発は、論文に出来ないというやつがいるが、それは違う。ちゃんと取り組めば、必ず自分なりの色・アイデアが出せる」と言っていたのが印象的で、自分もそうだと思って取り組もうと思ったのが大きかったと思う。論文に出来ないと自分で決めつけてしまえば、できる研究も出来なくなる。
この頃、着任してすぐに開始したSerial EnKFの同化順序に関する論文が、ようやくacceptされる (Kotsuki et al. 2017; MWR)。この論文は、Tellusに一度、MWRに二度REJECTされ、なかなか心が折れかけたのだが、最後に「逐次同化の中でRMSEやスプレッドはどのように変わってるのだろう?」と疑問をもって可視化したことで突破口が得られた (Figure 6)。ここから、「EFSOを使って観測インパクトを推定して、そのインパクトの順に並べ替えると良い」という結果が得られ、最後にこの新規性が認められて論文は受理して頂いた (査読者の一人は最後までREJECTを主張していた)。
ところで、当時のJAXAプロジェクト会議には、三好さん、佐藤さん、富田さん、岡本さんといった偉い人が揃っていて、4か月の1度のプロジェクト会議は、非常に緊張した。これだけの面々が揃っているので、「頑張ったけど進捗が出せませんでした」は許されない(と、勝手に思っていた)。論文の作成や修正に時間をかける時期もあったりするのだが、東京・つくばから来て頂いているのに、「今回は論文書いてたので進捗はありません」という報告は失礼だと思った。ということで、ほとんど毎回、プロジェクト会議の前は2週間くらい前からストレスでお腹が痛かった。良くも悪くも、研究進捗は出し続けることが出来たので、今に繋がってるのだと思う。
この頃、「この大学で助教のポスト出てるから出してみませんか?」という情報共有を数件頂いた (オファーではなく、公募出てますよという情報共有)。思い出していただけるのはありがたいと思いつつ、今は理研で研究すべきだと考えて見送ることにした。自分の研究室を持てると幸せなのだろうが、confortableでもあるので、今はしっかりと研究に向き合うべきだと考えたのである。
また、理研の成果を、きっちり収穫しきりたいと思った。年初の計画方針を立てるときに、Production (生産) か、Production Capability (PC; 生産能力) の向上に時間を使うかは、2014年から考えるようにしていた。2014, 2015年はPCの年で、2016年はProductionに振った。成果は時差があるので、2016年のProcuctionの結果は2017年に現れる。論文が出る見込みもあったし、やりたいこと/できることも増えてきたので、まだ理研で研究させていただこうと考えた。(PとPCの話は、7つの習慣に由来する)
2017年・31歳: いろいろ繋がり成長を感じる
この時期、1年ごとに自分なりにテーマを決めていた。これは、当時理研にいた後輩の大東さんが、「年に1つ新しいプログラミング言語を習得するようにしている」と言っていて、それが良い取り組みだと思って真似したものである。2017年は、「哲学的思考の獲得」をテーマにして、科学哲学・論理学・構造主義・倫理関係の読書を重点的に行っていた。
この頃、自分が悩んできた「科学とは何か?」ということが、自分自身の研究経験や科学哲学の議論と繋がったと思う瞬間があった。特に、カール・ポパーの主張する、反証主義「科学とは仮説を生き延びさせる営み」が、自分の中にストンと落ちた。それまで、何か正解があって「正しい結果」を出さないと論文に出来ないと思っていた。しかし、論理非保存の帰納を繰り返す経験科学においては、永遠に正しいことは証明できない。なので、自分がちゃんと頭で考えたアイデアや結果に対して、「ここまで考えて、それを世に問う」という態度で論文を書こうと思う様になってきた。
おそらくこの転換により、論文を書く作業が、苦行から楽しい作業へと変わった。論文が、「間違ったところが無いかを誰かに確認してもらう」作文ではなく、「自分はこのように考えて、これが尤もらしい結論だと思う。だけど、この辺はまだよくわかっていないんです。」という、自分の発見・意見・見解を述べる作品だと思えるようになったからである。その昔の中世のころ、科学者は「こんな発見したんだよ」と私信で連絡を取っていたそうだが、その感覚に近い。また論文における「議論・Discussion」の重要性も分かってきた。正しい事を述べるのではなく、尤もらしい仮説を述べる作品なので、論文における主張の限界などはしっかりと述べないといけない。自分自身も査読を重ねるようになって、良い論文はイントロと議論が素晴らしいことが分かってきた。
またこの頃、研究に関する試行錯誤の中で、自分なりに2つの技を身に着けた。
1つ目の技は、「論文を書く前に論文をラフに下書きしてしまう」、という技である。当時、理研・富田チームにいた佐藤陽祐さんと一緒にパラメータ推定の研究に取り組む。佐藤さんとの1回目か2回目の論文で、「こういう実験をしたらこういう結果が出てくると思うから、そこにこういう解析をしたらいいと思う。論文を書くとしたらFig 1はこんな感じで~」とホワイトボードにさらさらと論文にこんな図を載せよう、という話をしてくれた。
この、「実験を始める前に論文のストラクチャーを作ってしまう」というのが目から鱗だった。この技を身に着けるまで、膨大に実験を回して、その実験結果を見比べながら、どうやって論文のロジックを作るのかを考えていた。一方で、この技を身に着けると、「人を納得させるには、どのような実験をデザインするのか」という視点で実験デザインが可能になり、効率性が相当上がることになる。この作業は、impclitの効果ももたらす。その効果とは、仮説演繹の力が付くことである。仮説を持って実験できるようになるため、もし上手くいかなくても、「仮説通りにいかなかったのはなぜだろう?」と振り返ることが出来るので、自分自身の仮説の力を高めることが出来る。つまり、(1) 効率的な実験、(2) 仮説力の強化、という2つの点で成長できるのである。
2つ目の技は、「他人の頭を使って考える」である。科学とは何か、が分かる様になってくると、論文におけるDiscussionが大事なことが腑に落ちてきた。経験科学における論文とは、正しいことを書くのではなく、あくまで仮説を書くものである。その立場に立つと、論文のおけDiscussionにおいて、「この論文でどこまで分かったのか、限界は何なのか、別の視点で結果を解釈できないのか?」ということを議論せねばならない。しかし、このDiscussionは相当経験値を問われる。ここで、セミナー・学会などで他の研究者から受ける質問がとても参考になることに気が付いた。何故なら、それは他のプロが「ほんまか?」「なんでや?」「いや、ロジックよくわからん」と思うポイントだからである。なので、そういったポイントをきちんと解析・深めると、そのまま論文のDiscussionに使えるのである。
あと、この年、大きな失敗をする。JAXAプロジェクトで大塚さんがナウキャストベースの全球降水マップ研究をしていたが、気象庁から予報業務許可を採ろうという話になった。気象予報士資格を持っていたこともあり、小槻が担当することになるが、ここで書類上のミスをしてしまうのである。もう研究者を辞めないといけないかと名古屋の寒空の下で震えたが、いろんな人に助けられて事なきを得る。
なお、この時の気象庁とのやり取りや、気象予報業法の勉強は、10年後にムーンショット型研究で活きてくる。そもそも行政官がどういったポイントで見ているのか、や、法律の考え方 (e.g. 理念があってその理念を表現するのが法律。義務と努力義務の違いなど)を大きく把握できたことで、ムーンショット型研究で法律系の研究者と話すための最低限の土台が出来た。当時はこのように繋がるとは思っていなかったが、やはり全力で取り組んで良かった。
当時に意識していたことは、「責任を自ら取りに行って、自分自身のマーケットバリューをあげる」という考え方である。これは大学時代の友人が、銀行から外資系コンサルに転職する際に言っていて、非常に印象に残った。仕事・研究をしていると、容易に自分の世界に入りがちなので、「これ以上を仕事を振らないでください」という気持ちになることもある。だけど、今の若い時には、成長して自分のマーケットバリューをあげるのが一番だと思った。そのためには、自らの身を責任ある立場においておくのが一番である。なぜなら、責任を負うからこそ自己反省し、責任を負うからこそ成長できるからである。
ということで、気象庁の予報業務許可や、理研のデータ同化スクール (発展編) の責任も引き受けることにする。このスクールで身に着けたSPEEDY-LETKFも、そのあとの論文・海外共同研究・AI天気予報繋がってくるので、結局頑張ってやれば物事はつながるんだと、振り返ってみて思う。(近藤さんには大変お世話になりました)
2017年は論文3本出て (MWR, JGR, QJRMS)、また文科省の卓越研究員に採択されたこともあり理研の特別研究員-->研究員に昇任させていただく。また、科学とは何かといった疑問の解消や、科学的研究の進め方について自分なりの技を編み出したことで、「なんか俺、成長してるかも?」と良い気分であった。何となくデータ同化の本質も掴んだ気がしていた (当時は、多変量の重み付き平均だと思っていた)。
2017年4月の佐藤陽祐さんとの議論。ほとんどこの構成のまま、Kotsuki et al. (2020; JGR) になる。なんでもないメモ書きなのだが、自分にとっては、「実験の前に論文を書く」という技術を教えてもらった、記憶に残る1枚。
2018年・32歳: 成長の停滞期
この年に身に着けた技は、研究の同時並行である。2017年の途中から、同時に進められる研究のアイテムが増える。コツは2つあって、1つは工程管理の思考を研究に導入したことである。僕のイメージでは、テトリスのような感じで、限られた時間という制約条件の中に、複数の研究を埋め込んでいくのである。ここで、研究にいくつかステージがあることがポイントである。(1) 調査・レビュー、(2) データ・実験準備、予備解析であたりを付ける (RQの定義)、(3) 実験デザイン、(4) (実験)、(5) 仮説思考・試行錯誤、(6) 論文化、(7) 査読対応。このうち、もっとも時間を要するのは、準備・予備解析であたりを付けるところである。ここで、論文化を見越して、必要な可視化スクリプトなども作ってしまう (楽しい)。ここはcreativeな作業なので、朝のもっとも元気な頭をつかう。実験はスパコンがするので時間にはカウントしない。実験デザイン・仮説思考は、頭を使うところなので、行き帰りの通勤時間にも思考できる。ということで、研究のボトルネックになり得るのは、(2) であり、複数の研究テーマでここが重複しないように気を付けるのである。また、「実験していること=研究ではない」ことにも気を付けていた。スパコンの悪い面は、頭を使わずにパラメータスイープ実験ができちゃうことである。なので、頭を使わずに闇雲に実験を回して、結果を確認して、みたいな状況になると、手は動いているけど研究が進まないことになる。要注意。
もう1つのコツは、脳のバックグラウンドジョブの活用である。おそらくこれは、前野隆司さんの「脳はなぜ心をつくったのか」という脳科学・意識の本を読んだことがきっかけで考え始めたことだと思う。この本によれば、自分の脳は意識に上がらなくても、バックグラウンドで (無意識に) 常に考えている。この機能を使うために、実験が上手くいかないときに、あえて距離をとって休ませることにしたのである。1~2週間休ませて、改めて見直すと、いろいろと課題が見えてくるから不思議である。誰しも、PCに向かいあうときにはわからなかったバグが、電車に乗った瞬間に分かる、みたいな経験はあると思う。そのようなバックグラウンドジョブの営みを、意識的に活用し用途したのである。
またこの時期、生産性を上げるための試行錯誤として、自主的に時差を導入して、日本+2hの時間に生きていた。単にスマホの時間を2時間進めるだけなのだが、こうすると普段通りに1時に寝て、7時に起きても、日本時間では23時に寝て、5時に起きることになっている。ということで、一番生産性の高い時期は、朝の5:30-6:00くらいに研究所について、研究を開始していた。もはや家族を持つとこんなことは許されないが、とってもおすすめである。
当時の悩みは、今の知識・技術で何ができるだろうかと考えるForecast型の研究しかしていないのではないか、ということがあった。いわゆるテレビに出てくるような研究者は、「自分はこんな夢があるんです。だから、今この研究をしています」というバックキャスト型で研究テーマを設定していて、これがかっこよく見えた。そんな折、スイスのジュネーブに行って、国連本部を見学する機会があった。その時、「何を自分は観光気分で来てるんだ」と、のんきな自分に腹が立った。そこで、研究をバックキャストで考えるのはまだ難しいけど、ひとまず国連に招待されるような研究者を目指そうと思うようになった。38歳になって思うのは、若いときからバックキャストで目標を定めるのは無理じゃないか、ということである。不惑という言葉もあるように、目標が定まるのは40歳くらいになってからで十分なのだと思う。
もう1つの悩みは、科学者としての成長を感じられなくなってきたことである。この辺で、國分巧一朗さんの「暇と退屈の倫理学」という本を読みなおして、これが自分には大ヒットした。その中で手に入れた概念の1つは、「人は暇が無くても退屈する」である。当時、自分でも成果を出せていたし、招待講演を依頼される機会も出てきて充実感をもって仕事をしていた。が、國分さんの本を読んで、「あれ、俺、忙しくて充実してるって思ってたけど、退屈してるんじゃねーか」と、言語化されてしまった。2018年の秋ごろだと思う。研究が楽しくなくなったというよりは、クリアできるゲームをプレイしている、という感覚になったのだと、思う。
なお、この年に、デイル・ドーデン「仕事は楽しいかね」という本を読んで、この本も人生のターニングポイントになった。「失敗するかもしれない」実験をする習慣がついたのだが、この習慣がつくと、研究がめちゃくちゃ楽しくなるから不思議である。おすすめ。
2021年9月の水水若手会講演の際にまとめた、研究員時代の研究アイテムのタイムライン。2017年ごろから同時並行で進められる研究のアイテムが格段に増える。筆頭著者論文の研究のみのアイテムで、ちゃんと論文として出版させているのは、我ながらよくやっとる。
テトリスのような工程管理のイメージ。こちらから引用。
2022年ごろまでの論文発表・学会発表の数 (プロジェクトの報告は含まない)。学会発表は主著のみ。海外出張は年間で最大でも4回くらいだと思うが、ISDAなど複数の発表ができる場合は、複数発表していた。口頭1 & ポスター2件など。我ながらよくやっとる。
2019年・33歳: 転換期
2019年は比較的調子が良い年で、3本の論文を出版する (QJRMS, WAF, SOLA)。
この時期、おそらくEFSO、ETKF、粒子フィルタなどの理論面の研究をしたからだと思うが、以前よりデータ同化に対する理解が深められた気がした (ここではこの理解の深まりをダイブと呼ぶ)。データ同化に関して、数式と感覚・イメージが繋がり始めたのである。例えばそれは、Kotsuki et al. (2020; QJRMS) の Figure 1に現れている。アンサンブル変換カルマンフィルタ (ETKF) の式を、ゼロから導出できるようになりたいといろいろ考えているなかで、「アンサンブル摂動行列で張られたアンサンブル空間」という感覚を図に落とすことができた。この図を見ると、ETKFの導出は非常に簡単だし、アンサンブル空間の解析誤差共分散の式がどうしてこうなるのかも、よくわかる。この図は、自分の知る限り他に見たことが無かった (天才には当たり前すぎるのかもしれない)ので、論文の主張とは直接関係ないのだが、自分としては価値のある可視化・言語化だと思っている。同じように、EFSOなどの式が、感覚として腑に落とすことができた。数式として式を導出できるのはそれほど難しくないが、感覚と式とが結びつくと、ゼロから式を導き出せるようになる。
直感的にこの2回目のダイブは、非常に貴重な経験だと理解した。おそらくどのような学問でも、ある程度時間を捧げると (1~2年) 最初のダイブ (なんとなく分かった気がする) は訪れる。ポイントは、多くの人がここで「なるほど分かりました」と引き返してしまうことである。「なんとなく分かった」の後は、なかなか次のダイブまでたどり着けないのだが、コツコツと努力を重ねると、次のダイブが訪れる。この2回目のダイブは、1回目のダイブで引き返した多くの人には訪れない。この2回目のダイブができたことで、科学者としてもう少し深みにたどり着けたと感じた。科学者の能力としては、数式で研究・思考し、データ同化の理論研究ができるようになった、ことに対応するのだと思う。
ところで、2019年の2月に理研で国際データ同化シンポジウムを開くことになっていて、小槻が研究チームの中で責任者になっていた。会場、プログラム、バンケット・Ice Breakerの手配、などなどを有能なアシスタントと一緒に進めたのだが、38歳の今となっては記憶がない。2日目の夜に、invited speakerの方々と飲みに行く機会があった。飲み会の帰りにCraig Bishop先生と一緒に歩いていて、「最近オーストラリアに移ったんだけど、誰か良い研究員いない?」と言われて、「僕とかどうでしょうか?」といってみると、「You? Great!」と言って頂いてその気になった。
後日、三好先生に相談すると、「せっかく研究員になったのに、またポスドクに戻るのはお勧めしない」と止めて頂いた 。当時は世界が分かっていなかったので、感謝している (世界的には、キャリアを振り出しに戻しているように見える。違和感のある履歴書は、それだけその後のキャリアアップを妨げる)。とはいえ、一度海外にも行ってみたかったので、8月に1ヶ月間滞在させていただく機会を頂いた。メルボルンの1か月は大変楽しく、研究に没頭した。これだけ研究のことだけを考えたのは何時振りだろうという感覚を持ったことを覚えている。また、オーストラリア気象局などで発表させていただく機会を頂き、研究者としてリスペクトされている感覚が非常に幸せだった。
2019年の悩みは、プレイヤーとして生きるか、グループを率いるか、である。プレイヤーとしての研究は非常に楽しく、まだまだ成長できる感触があった。また、ありがたいことに、ISDAなどの機会に、海外の先生からうちに来ないかって誘いを受けることが数回あった。一方で、当時、千葉大学で准教授の公募が出ていて、応募していた。33歳で准教授はなかなかなれるものじゃないが、自分を試す良い機会だと思ったのである。メルボルン滞在中に、率直にCraigにも相談をした。Craigは「自分を試したければ、グループを持って自分のアイデアを問うことだ。」と言っていた。
色々な人に相談したわけだが、最終的に決断した理由は、自分をもっと成長させるため、であったように思う。当時、プレイヤーとしてはそれなりに成果を挙げており、まだまだ科学を深化させられる自信があった。一方で、プレイヤーの科学者としての生き方は、なんとなく先が読める気がした。「新しい問題を発見し、研究し、成果を出し、論文を書く。」というサイクル自体が、なんというか既知の活動だと思ったのである。一方で、自分自身が研究室を立ち上げ、グループを率い、国内・国外から認知されるような研究室に育てられるかは、全く未知数である。だからこそ、そのような環境の方が、自分自身がもっと成長できると考えた。もう1つ、自分自身で行いたい研究のアイデアが、もう自分自身の手には収まりきらなくなってきたことも理由として大きい。
こうして、千葉大学・環境リモートセンシング研究センターに着任する。2019年11月のことである。
2019.08 メルボルン滞在中の議論の一コマ。ほとんど毎日、30分議論していただいた。

2019.11に着任した、千葉大学のからっぽの居室。
まとめ: 研究を通して学んだこと
結局、理化学研究所には5年10か月在籍させていただいた。自分にとっての青春の時期で、研究に没頭していたように思う。また、試行錯誤を通して多くのことを学んだ。生存者バイアスにまみれた意見として記述する。
その①: まず量。質はその後からついてくる。
欧米の研究者の言葉で、「もし研究者としてやっていきたかったら、週に60時間は仕事せよ」という言葉がある。感覚として、最低限それくらいはやっていたのではないかと思う (自己研鑽でもあるので、仕事だとは思っていない)。イーロンマスク然り、世界を見ても、やる奴はめちゃくちゃ時間を捧げている。まず量をこなさなければ、おそらく一流にはなれない。今はAIの時代で、昔と同じことは短期間でできるようになっている。それでも、量は必要だと思う。なぜなら、相手は10年前の研究者ではなく、同じ時代を生きる同じ環境の研究者だからである。相手も同じように効率化して、その上で時間と量を捧げているのである。
例えば1日8時間が規定だとして、2時間多く研究をしたとする。これは、一見、10h/8h = 1.125倍に見えるかもしれないが、実態は2倍くらいの差がある。なぜなら、MTG、プロジェクトの運営、研究の議論、後輩のサポート、admin業務などなどで、1日6時間くらいは自分の自由にはならないからである。そのため、2時間多く捧げられた時間は、実質2倍くらいの効果を持つのである。
時間を捧げることで、おそらく初めて、自分なりの世界観を体得できる。小槻にとっては、2017年にパチンと色々繋がった感覚があった。これがいつ来るかは、人によって違うと思うので、分からない。感覚としては、子供が急に話し始める感じに近いと思う。子供は最初、二語文くらいしかしゃべれないのだが、ある時に急に長い文章を話し始める。これは頭の中の辞書の相互ネットワークができて、急に言葉による思考ができ始めるからだと思っている。同様に、研究の対処、メタな研究能力、疑問みたいなものが相互ネットワークが繋がるタイミングがあるのだと思う。
若いときに時間を捧げた方が良い理由は、若いときの成長は指数的に効くからである。30歳の時に1.1倍多く働くのは、40歳の時に2.0倍多く働くくらいの価値がある (もっとかもしれない)。なぜなら、良い成果を挙げていれば、より多くのチャンスが来るし、より良いポジションや研究費を獲得できるチャンスも増える。同じ努力に対するコスパは、若い時の方が圧倒的に高いのである。
その②: 経験はあとで振り返って初めて繋がって見える。不確実で困難な道を選べ。
Steve Jobsの有名な卒業講演で、こんな言及がある。「You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.」まさにそう思う。
3回REJECTを食らった逐次同化における同化順序の最適化研究 (Kotsuki et al. 2017; MWR) では、最後に観測インパクト推定 (EFSO) にたどり着いた。このEFSOは、その後NICAM-LETKFにも実装することになり (Kotsuki et al. 2019; QJRMS)、『観測の価値』が自分の研究の強みの1つになった。その強みは、2019-2023年のJST・さきがけの採択に繋がり、さきがけで知り合った数理系研究者との繋がりは、後のムーンショット型研究に繋がる。さて、2014年に同化順序の研究に取り組んだとき、全くこんな事予期できなかった。
データ同化スクールで教えるために身に着けたSPEEDY-LETKFは、後に色んな研究に繋がる。データ同化の高速化 (Kotsuki et al. 2020; QJRMS)、粒子フィルタ (Kotsuki et al. 2022; GMD)など。また、Craig Bishopとの共同研究を論文に出来たのも、このSPEEDYを使った研究である (Kotsuki and Bishop 2022; MWR)。のちのClimaX-LETKFもこのシステムをベースに開発している。「お仕事だから」と適当にお茶を濁さずに、ちゃんと責任を持って遂行したのが後に資産になっているのかと思う。
小槻は父も研究者なのだが、父はよく、「迷ったら困難な道を選べ」と言っていて、それは骨にしみついている。これまで、理研の選択や、千葉大の選択は、より不確実性の高い道を選んできたが、これは結果的に良い選択になっている。不確実性の高い道を選ぶことで、強制的に努力せざるを得なくなるし、自分では想像していない経験値を獲得することができる。若いときはカンファタブルな道を歩まず、敢えて正攻法から外し、「不確実で困難な道を選ぶ」のが長期的に最適な選択なのだと思う。
その③: 成長モデル。2回目のダイブまで辛抱できるかが岐路。
おそらくこの様になっている。まず、捧げた時間に対して成長曲線はすぐに反応しない。これは、ランニング初めてもタイムが伸び始めるのに時間が掛かるし、受験勉強初めても点数に現れるのに2~3か月はかかるし、多くの物事で共通するかと思う。それでもがむしゃらに取り組まなければ、道は開けない。
成熟期で自信が低下するのは、ダニング・クルーガー効果によるものだと思われる。成長した自分の能力が当たり前になると、それがそれほど特別なものではないと気が付く (井の中の蛙だったとわかる)。ここでもう一度踏ん張って second diveできるかが、岐路。小槻個人の経験では、2016-2017年ごろの成長のあとで、2018-2019年ごろに二回目の成長期があったように思う。
当初理研の着任時、2年くらいで別の大学・研究所に移ろうと思っています、という相談を三好先生にしたことがある。複数場所を変えた方が、いろいろな経験値を得られると思ったのである。三好先生はその意見には反対で、「そういうつまみ食いしてても、大した研究者にはなれない」という意見だった。今となっては、それはsecond diveの重要性を意味していたのではないかと思っている。小槻も同様に、研究室にくる研究員には、second diveの経験までサポートしたいと思っている (予算の許す限り)。
小槻が勝手に提唱するシグモイド成長モデル。
その④: 責任は自らTakeしたほうがお得
個人の経験から。単純にその方が成長できるから。
また、プロジェクトのコアな部分を担当させてもらった方が良い 。もちろん責任は重い。責任は重いのだが、ボスの対外的なプレゼンで紹介してもらったり、会合に同席させていただけたりで、顔が広がる。また、提案書・報告書のとりまとめ業務も、ボスのやり方を見て真似することができる。自分がプロジェクトを率いるときにも、その経験値は役に立つ。NICAM-LETKFのコアなところを研究する機会を頂いたおかげで、地球科学・計算科学・数理科学といった様々な方面に人脈ができ、これは後のJST・さきがけやムーンショット、気象研・JAXA等との共同研究に結びついていった。
自分の研究室内外を見ていても、プロジェクトのコアにコミットしない研究員はいるが、外から見ていてもったいないと思う。多くの場合、博士時代からの研究を継続して、そちらに時間を費やしすぎている様である。でもそれって、せっかく場所を変えて研究してるのにもったいなくないですか、というのが小槻の意見である。せっかく環境を変えたのだから、その環境で吸収できる最大限の経験値を獲得した方が良いと思うんだけど、皆がそう思うわけではないようである。
また、与えられたプロジェクトのタスクの中に、自分なりの色を出して科学性を付け、論文化まで持っていくのは博士研究員として求められるスキルだと思う。自分の得意・専門分野で論文を書くのは、そんなに難しくことではない。プロジェクトのミッションを満たしつつ、同時にサイエンスも深めるというのが、できる人はできるし、できない人はできない。
その⑤: 自分の強み
量をこなす中で、自分なりの強みもわかってきた。
まず体力と集中力。単純に思考の体力がそれなりにあることが分かった。おそらく、テニスで鍛えた物理的な体力に由来する。
好奇心の幅とRPG。当時研究チームには、10名前後の研究者がいたが、他の人の研究はおおむね、自分でも紹介できるくらいは理解していたように思う。分からなければ、セミナーの後にデスクまで行って質問していた。他人の研究をフォローすることで得られるメリットは、単純な知識だけでなく、Role Playing Gameができるようになるからである。自分だったらどういうプレゼンをするか、自分だったらどういう図を作るか、自分だったらどういうResearch Questionを立てるか、自分に思いつけないアイデアはどのように思いついたのか、といったことを考えながらプレゼンを聞くと、単純に経験値が稼げる。特に、実験を聞いてどうやってアルゴリズム組んだのか分からないときは、質問のチャンスである。へぇ、こんな実装の仕方あるのか、というのを多くのメンバーから学んだ。
一方で、多くの才能も見た。例えば、プログラミング力、数学力、気象の知識といったところでは、自分が10年研鑽を積んでもたどり着けないであろう才能を間近に見た。これは大学でも思っていたことだが、自分はあくまでも普通の人間だということを、研究員時代にも再認識した。ということで、研究室立ち上げ以降は、総合力で勝負する方法を考えていくことになる。
その⑥: 物事の構造を捉える力
プレイヤー時代に培い、大学教員になってから最も身を助けたスキルは、「物事の構造を捉える力」だと思う。例えば、卒論・修論の公聴会などでは、他研究室の学生の発表に対してもコメントする必要があるのだが、内容がイマイチ良くわからなくても、構造を捉える力があれば的確にコメントできる。どうやら、自分はこの構造で捉える力・言語化能力がそれなりに高いことが分かってきた。研究室では、各種フレームワーク・原則策定を進めているが、これも、「自分が今の研究発表や論文に対してて抱く疑念やコメント、それはどういった構造から来ているのだろうか」と自分の思考の構造を収集・整理してまとめていったものである。
それが、なんで身についたのかはよく分からないが、研究活動自体に原因は無い気がしてる。自分なりに考えられる理由の1つ目は、就職活動の経験である。1つは、当時SPと呼ばれていた問題に、論理パズルが出題されていて、その問題集をいくつかやったことだと思う。論理パズルは、結局論理のパターン・フレームを抑えるための訓練なので、このパズルのやりこみは、フレームの叩き込みのような要素を持っていたのだと思う。また、物事の第一推定値を掴むためのフェルミ推定も役立っていると思う。
2つ目の理由は、哲学が好きで、それなりに構造主義の書籍を読み漁ったからだと思う。この経験から、「様々な物事の裏側に、どのような構造があるのだろうか。自分が自由に発想したと思う思考は、どのように規定されているのだろうか」という思考で物事を見えるようになった。構造主義は、研究とは全く関係なく、自分の好奇心で理解しようとしていた概念である。結局、そのような寄り道が後で身を助けるので、人生は面白い。
(時間があったら加筆する)
「嫌われる勇気」
「成功しないといけない病」