完全な自己満足ですが、どこかで悩んでいる人の助けになるかもしれません。
2013年・27歳頃: 自分は科学をしているのだろうか?
博士学生の頃、利根川進・立花隆の「精神と物質」という本を読んで、ショックを受ける。利根川進、曰く、
「どうでもいい事をやっているのに、大事な仕事をしたつもりになって、一生を終えるサイエンティストが多い。」
「サイエンティストの大半は、どうでもいい事をしている人たちです。彼らはサイエンティストを自称して、サイエンスを飯の種にしているけれど、サイエンスの側からしたらどうでもいい人たちなんですよ。」
「科学で一番大事なのは、自分自身をコンヴィンスさせる事なんです。それが本質的かどうか、徹底的に考えることが大事です。」
自分のテーマ設定に悩んでいるタイミングで、ひどく傷つく。直観として、その時の自分が行っていたことが、「サイエンスを飯の種にしているけれど、サイエンスの側からしたらどうでもいい人」だと思えた。また何より、自分自身が、自分自身を納得させられていない事に気が付いたのである。
博士の時に、数本の英語論文は発表していた。ただ書いてる本人が、その英語論文は、世界の誰に届くんだろうという素朴な疑問を持っていた。サイエンスという世界の人が関わる社会活動の中で、無価値な論文を書いているんじゃないかという、「科学の中の孤独」みたいな感覚を覚えていた。関東の大学の学生たちが、「この研究はSivapalanがやっていて~」みたいな事を言っていて、世界と繋がっていそうな研究に羨ましさを覚えた。
時を経て振り返ると、そもそもの原因は、自分の好奇心に基づいた研究ではなく、「こういう研究をしたら論文になるだろう」という、誰かの評価を気にして研究をしていたことにあると思う。自分自身の採点表を、目に見えない誰かに委ねている状況だったのである。
結局、この悩みはいくつかの試行錯誤で邂逅されていくことになる。
1. 自分自身の採点は、自分自身でする (内的同期への変換)
2. 「経験科学」を理解する
3. ちゃんと科学をする。
1と2については後で触れるので、ここでは3について。結局、一度きちんとサイエンスをしないと始まらないと思って、学位を取った工学・土木分野から一度離れよう心に決める。
ところで、2013年だったと思うが、初めてリモートセンシング学会に参加した。そこに参加していた当時博士1年のとある学生と一緒にお昼を食べたのだが、彼は秋からアメリカに留学すると言っていた。「モチベ高いっすね」と聞くと、彼は、「いや、逆なんです。僕は怠惰なんです。だから、自分を成長させようと思ったら、厳しい環境に身を置いておくことが一番簡単なんです」と言っていた。以降、この考え方「自分はLazyなので、ちょっと厳しめの環境に身を置いておく位が丁度いい」はお気に入りになる。
また、当時の自己分析では、自分は研究室の主催者に向いているんじゃないかと思っていた。これは偉そうに言ってる訳ではなく、消去法的な選択でもあった。というのも、自分の特技は、物事をザックリ捉えて、それらを組み合わせるアイデアを考えられるところにあると思っていた。一方で、苦手なのは、一つの物事を深く考え、より彫り込んでいく所謂エキスパートとしての生き方である。大学でものちの理研でも、数学・物理・プログラミングが得意な人は周りにたくさんいて、その方面で彼ら/彼女らに勝てる気がしなかった。逆説的に、博士を取った後は、まず一度エキスパートにならねばならないと思った (ので、理研に行くことにする)。自分の性格的に、エキスパート性を身に着けなくても小器用に生きていける気がしたが、それだと決して大成しないと思ったのである。
2014年・28歳の春: 研究の議論が出来ない
2014年1月から、幸いにも、理研・計算センターの三好先生の研究室で特別研究員として働き始める。今は気象庁で働かれている大泉さんに繋いで頂いて、2013年5月に理研を訪問し、三好先生・大塚さん・近藤さんに研究相談をする機会を頂いたことがきっかけである。「陸面同化でこんな研究をしたいと思うんですが、どうでしょうか。」という相談をして、議論でボコボコにされた。防戦一方になりながら、なんとか自分の意見・考えを言っていたら、終わり掛けに「来年からうちに来て研究したら?」と言って頂けた。正直、完全に新しい分野 (気象学・計算科学)でビビったのだが、5秒考えて「お願いします」と答えた。何かを変えないといけないと思っていたのだ。後で振り返ると、ターニングポイントになる。
データ同化・数値予報は自分にとって新しい研究であり、ちゃんと勉強しようと思ってデータ同化は少しずつ数学の勉強を続けることにした。色んな文献を読みながら、自分の言葉と概念で理解できるようにノートにまとめて行った。今研究室のHPで公開しているデータ同化のスライドは、その積み重ねを改めてスライドに起こしたものである。また、気象の勉強もしたかったが、どうやって勉強したらいいか分からなかったので、気象予報士試験も勉強した。ダラダラと勉強してもしょうがないので、1発で取ると自分で決めて、毎日1~2時間勉強した。UCANの通信講座も使って、無事に1発で取ることができた。
ただ最初に困ったのは、「研究の議論が出来ない」ということである。一番最初の研究は、Lorenz 96モデルを使った同化s順序論文 (Kotsuki et al. 2017; MWR) や、数値天気予報モデルNICAMと新しく上がった衛星GPM/DPRの比較研究 (Kotsuki et al. 2014; SOLA)だった。研究チームで、定期的にMTGをして頂いていたが、よく言われたのは「何を言ってるか分からない」だった。当時は日本人メンバーだけでMTGしていて、日本語で議論していたので、これは言語の問題ではない。後で振り返ると、これは、「仮説検証になっていない」ということを言われてたんだと思う。この作文をしているときに、自分でもMTGのスライドを見返してみたが、確かにひどい。38歳になった今、「何を言っているか分からない」を翻訳すると、こういうことなのだと思う。
(1) 何故そんな実験をしたかが分からない: なんとな~く実験をしていたので、その実験で何を出したかったのか、既往研究やこれまでの研究から何故その実験をしたのか、という仮説がない。
(2) 何が分かったかが分からない: なんとな~く結果を出して説明しているので、何が分かったのか、何を議論したいのか、が分からない。何を検証しているのかが分からない。
後になって、自分で研究室を持ち、今度は自分が研究を指導する側になって同じことが起こった。今研究室のMTGでは、最初にテンプレートとして (1) これまでの研究、(2) 前回の指摘、(3) 今回の進捗、(4) 分かって無い事・議論したい事、(5) 次回までの計画、として1枚でまとめてもらっていますが、このテンプレート化は自分自身の苦しみから来ています。
「何を言ってるか分からない」を、自分がどの様に解決したのか、今となっては分からない。自分の中では明確なターニングポイントはなかった。三好先生や先輩との議論の中で、少しずつ邂逅していったのだと思う。2014年のデータ同化研究チームには、大塚さん・寺崎さん・近藤さん・Guo-Yuanといったスーパーマンな先輩が揃っていて、正直自分は足を引っ張っていて焦燥感が募っていた。だけど、せっかくデータ同化チームにいるんだから、ここでされている研究は全部理解しようと心がけた。実験デザインや、結果の解釈、なんでこの図を作ろうと思ったのか、なんで参考にした既往研究を知っているのか、といったことを聞いて、先輩の目を盗もうと思った。MTGについては、上手くいかなかったときに、MTGへの持っていきかたのどこが悪かったのか、大塚さんからフィードバックしてもらった。何かドラマティックなことが起こったわけではなく、小さな努力を重ねたのだと思う。
ちょっと脇道にそれるが、(多分頑張ってることを認めて頂いて) 2014年5月にアメリカで開かれたアンサンブルカルマンフィルタ・ワークショップに連れて行って頂いた。これが、本当に嬉しかった。Eugenia Kalnay、Fuqing Zhang、Jeff Whitaker、Peter Houtekamerといった、データ同化の勉強をしていて「論文で見たことある!」人と、たくさん出会えたからである。論文の中で知っていた研究者が、自分のポスターに来て議論してくれる、ということに感動した。博士の時には、論文を書いていても世界と繋がっている感覚を全く持てなかったのだが、この時に初めて世界との繋がりを実感できたのである。この時、科学における孤独、という感情が解消された。(今、研究室でISDAなどに行けば、学生・研究員の皆さんも、論文で見たことがある人に出会えると思います。これは、当たり前じゃないんです。少なくとも僕は、研究員になるまでは得られなかった感覚です。)
2015年・29歳: 全球天気予報、始めました
2014年の8月から、全球天気予報システム・NICAM-LETKFを使った研究を始めることになる。当初、理研では陸面データ同化をするつもりだった。ただ、三好先生の持たれているJAXAプロジェクトに参加させていただき、2014年8月の会議の飲み会 (二次会)で、「小槻君、NICAM-LETKFやってみない?」と(おそらく酒の勢いで) 提案頂く。天気予報モデル怖い、スパコン怖い、並列計算怖い、といういくつかの気持ちがよぎりましたが、5秒考えて「やります!」と答えた。新しい事を始めるチャンスだと思ったからです。後で振り返ると、ターニングポイントでした。
とはいえ、気象モデルの全容もつかめない、データ同化 (LETKF) のコードも膨大で分からない、スパコンの使い方にも慣れない、という分からなことづくめで大変に厳しかった。また、NICAMならではの正20面体格子の取り扱いがかなりトリッキーでそれにも苦労することになる。
最初の研究は、JAXAの全球降水マップGSMaPにガウス分布変換をして同化し、NICAM-LETKFの天気予報を改善するという研究だった。2014年9月に研究を開始して、11月に先輩の追試 (NICAM-LETFK)に成功するものの、GSMaPの正二十面体格子への変換が遅々として進まない。そんな中、11月ごろには2015年2月に行われる、国内のデータ同化ワークショップの口頭発表が決まり、退路を断たれて追い込まれていく。このワークショップは、log変換で雨を同化するというところまで行って、お茶を濁す。しかし、ガウス分布変換の実験が成功しない。
ガウス分布変換自体は、2015年の1月には完成し、京コンピュータにも実装出来ていた。しかし、データ同化サイクルを回しても気象予測が改善しないのである。募る焦燥をわき目に、2015年7月・北京の国際会議での口頭発表が決まる。共著者であるEugenia Kalnay先生も参加されるとのこと。焦燥が募る。しかし、実験が成功しない!
2015年4月の時点では、ガウス分布変換は正しく実装できて、想定通りに同化できているだろう、という確証は持てた。しかし、何度やってもデータ同化サイクルで天気予報が改善されない。5日くらいのサイクル実験は上手くいくのだが、その先が改善しないのである。当時の京コンピュータでの僕の実験は、概ね3時間くらいの待ち時間で、計算は6時間くらいの実験だった。朝、職場で結果を確認し、上手くいってないことを確認し、検討を加えて11時くらいにジョブを投げる。夜、結果を確認し、検討を加えて23時くらいにジョブを投げる。また次の日、同じことを繰り返す。来る日も来る日も、朝も夜も失敗の実験と向き合う。おそらくそれを、4~5か月繰り返した。何度やっても失敗するので、心も折れそうになる。しかし無情にも実験は失敗する。関係ないのだが、STAP問題で野依理事長の発した「研究者失格」という言葉が脳裏によぎる。
何度も何度も失敗を繰り返した最後に、北京に出発する前日に、「もしかしたら共分散膨張かもしれない」と思った。そこで、動的共分散膨張ではなく、共分散緩和法を実装して、飛行機の前にエイや、とジョブを投げる。北京で確認すると、ちょっとバグがありそうだった。最後に修正して、えいやっと祈りと共に夜中にジョブを投げる。発表は翌日の午前10時である。このジョブが失敗したら、もう助からない。翌日、朝7時に起きて結果を確認する。
き、、、、、、、きっっったーーーーーーー!
成功した。湯気がみえそうなくらい出来立てほやほやの結果を持って、北京の国際WSの発表は無事に終了する。発表のあと、Kalnay先生が「Conbgraturations!」といってハグしてくれた。うるっとした。
後で振り返ると、失敗の理由は分かる。それは理由は誤差相関である。衛星データが誤差相関を持っており、その相関を考慮して間引きを出来ていなかった。だから動的共分散膨張が機能しなかったのである。半年間の間捧げられた膨大な失敗の果てに、小槻はついに悟る。数学に基づいて実験を検証し、実験をデザインすることの重要さを。数学的に無理なものは、どんなに押しても引いても、無理なのである。
ここで、研究で大事なのは、「実験デザイン」ではないかと気づき始める。そういう目で学会・シンポジウムなどの優れた研究者の発表を見始めると、彼/彼女らは実験デザインがうまいことに気が付き始める。何か問いがあったときに、その本質を抜き出し、その問いに答えられるような実験をデザインするのがうまいのである。
2016年・30歳: 小さいアイデアを出せるようになる
GSMaPの同化研究をまとめながら、NICAM-LETKFの共分散膨張に取り組むことになる。当時、Miyoshi (2011) の動的共分散膨張を使っていたNICAM-LETKFだが、時々不安定化して実験が落ちることがあった。寺崎さんの報告で、これは共分散膨張が犯人だろうということも分かっていた。
GSMaPの同化で共分散緩和法 (RTPP) を実装したこともあり、小槻がこの研究に取り組むことになる。どうせ取り組むなら、別の緩和法 (RTPS) も併せて実装し、また、その動的パラメータ推定もしたいと思った。当時、PSUのグループでadaptive RTPSが提案されていたので、それをNICAM-LETKFに実装した。adaptive RTPSの式を眺めながら、何とかRTPPもadaptiveに出来ないかなぁ、と考えていた。ルーズリーフに式を書いてあれこれとこねくり回していると、できた。その導出は、Kotsuki et al. (2017; QJRMS)のappendixひっそりと書かれているが、自分で初めて新しい導出を考えて、それを世に残せたことが嬉しかった。また、計三回REJECTをくらったLorenz 96の同化順序論文も、EFSOを使ってより良い順番を見つけられることが分かり、論文として世に残すことが出来た (Kotsuki et al. 2017; MWR)。
この辺りで、「どんな研究でも、ちゃんと深く考えれば自分のアイデアが出せて、世に出せるのではないか?」と思う様になってきた。当時、JAXAのプロジェクトがメインエフォートであり、プロジェクトではどうしてもお仕事的な研究も出てくる。それでも、ちゃんと取り組めばサイエンスに出来るのではないか?と。共分散膨張も、同化順序論文も、単純にそれだけ実装しても論文に出来るテーマではなかったが、進める中で、新しいポイントを自分で見つけられたことに安心した。これは、当時のJAXAプロジェクトの飲み会で、理研の富田チームリーダーが、「モデル開発は、論文に出来ないというやつがいるが、それは違う。ちゃんと取り組めば、必ず自分なりの色・アイデアが出せる」と言っていたのが印象的で、自分もそうだと思って取り組もうと思ったのが大きかったと思う。論文に出来ないと自分で決めつけてしまえば、できる研究も出来なくなる。
この頃、着任してすぐに開始したSerial EnKFの同化順序に関する論文が、ようやくacceptされる (Kotsuki et al. 2017; MWR)。この論文は、Tellusに一度、MWRに二度REJECTされ、なかなか心が折れかけたのだが、最後に「逐次同化の中でRMSEやスプレッドはどのように変わってるのだろう?」と疑問をもって可視化したことで突破口が得られた (Figure 6)。ここから、「EFSOを使って観測インパクトを推定して、そのインパクトの順に並べ替えると良い」という結果が得られ、最後にこの新規性が認められて論文は受理して頂いた (査読者の一人は最後までREJECTを主張していた)。
ところで、当時のJAXAプロジェクト会議には、三好さん、佐藤さん、富田さん、岡本さんといった偉い人が揃っていて、4か月の1度のプロジェクト会議は、非常に緊張した。これだけの面々が揃っているので、「頑張ったけど進捗が出せませんでした」は許されない(と、勝手に思っていた)。論文の作成や修正に時間をかける時期もあったりするのだが、東京・つくばから来て頂いているのに、「今回は論文書いてたので進捗はありません」という報告は失礼だと思った。ということで、ほとんど毎回、プロジェクト会議の前は2週間くらい前からストレスでお腹が痛かった。良くも悪くも、研究進捗は出し続けることが出来たので、今に繋がってるのだと思う。
この頃、「この大学で助教のポスト出てるから出してみませんか?」という情報共有を数件頂いた (オファーではなく、公募出てますよという情報共有)。
2017年・31歳: いろいろ繋がって成長を感じる
この時期、1年ごとに自分なりにテーマを決めていた。これは、当時理研にいた後輩の大東さんが、「年に1つ新しいプログラミング言語を習得するようにしている」と言っていて、それが良い取り組みだと思って真似したものである。2017年は、「哲学的思考の獲得」をテーマにして、科学哲学・論理学・構造主義・倫理関係の読書を重点的に行っていた。
この頃、自分が悩んできた「科学とは何か?」ということが、自分自身の研究経験や科学哲学の議論と繋がったと思う瞬間があった。特に、カール・ポパーの主張する、反証主義「科学とは仮説を生き延びさせる営み」が、自分の中にストンと落ちた。それまで、何か正解があって「正しい結果」を出さないと論文に出来ないと思っていた。しかし、論理非保存の帰納を繰り返す経験科学においては、永遠に正しいことは証明できない。なので、自分がちゃんと頭で考えたアイデアや結果に対して、「ここまで考えて、それを世に問う」という態度で論文を書こうと思う様になってきた。
おそらくこの転換により、論文を書く作業が、苦行から楽しい作業へと変わった。論文が、「間違ったところが無いかを誰かに確認してもらう」作文ではなく、「自分はこのように考えて、これが尤もらしい結論だと思う。だけど、この辺はまだよくわかっていないんです。」という、自分の発見・意見・見解を述べる作品だと思えるようになったからである。その昔の中世のころ、科学者は「こんな発見したんだよ」と私信で連絡を取っていたそうだが、その感覚に近い。また論文における「議論・Discussion」の重要性も分かってきた。正しい事を述べるのではなく、尤もらしい仮説を述べる作品なので、論文における主張の限界などはしっかりと述べないといけない。自分自身も査読を重ねるようになって、良い論文はイントロと議論が素晴らしいことが分かってきた。
またこの頃、研究に関する試行錯誤の中で、自分なりに2つの技を身に着けた。
1つ目の技は、「論文を書く前に論文をラフに下書きしてしまう」、という技である。当時、理研・富田チームにいた佐藤陽祐さんと一緒にパラメータ推定の研究に取り組む。佐藤さんとの1回目か2回目の論文で、「こういう実験をしたらこういう結果が出てくると思うから、そこにこういう解析をしたらいいと思う。論文を書くとしたらFig 1はこんな感じで~」とホワイトボードにさらさらと論文にこんな図を載せよう、という話をしてくれた。
この、「実験を始める前に論文のストラクチャーを作ってしまう」というのが目から鱗だった。この技を身に着けるまで、膨大に実験を回して、その実験結果を見比べながら、どうやって論文のロジックを作るのかを考えていた。一方で、この技を身に着けると、「人を納得させるには、どのような実験をデザインするのか」という視点で実験デザインが可能になり、効率性が相当上がることになる。この作業は、impclitの効果ももたらす。その効果とは、仮説演繹の力が付くことである。仮説を持って実験できるようになるため、もし上手くいかなくても、「仮説通りにいかなかったのはなぜだろう?」と振り返ることが出来るので、自分自身の仮説の力を高めることが出来る。つまり、(1) 効率的な実験、(2) 仮説力の強化、という2つの点で成長できるのである。
2つ目の技は、「他人の頭を使って考える」である。科学とは何か、が分かる様になってくると、論文におけるDiscussionが大事なことが腑に落ちてきた。経験科学における論文とは、正しいことを書くのではなく、あくまで仮説を書くものである。その立場に立つと、論文のおけDiscussionにおいて、「この論文でどこまで分かったのか、限界は何なのか、別の視点で結果を解釈できないのか?」ということを議論せねばならない。しかし、このDiscussionは相当経験値を問われる。ここで、セミナー・学会などで他の研究者から受ける質問がとても参考になることに気が付いた。何故なら、それは他のプロが「ほんまか?」「なんでや?」「いや、ロジックよくわからん」と思うポイントだからである。なので、そういったポイントをきちんと解析・深めると、そのまま論文のDiscussionに使えるのである。
あと、この年、大きな失敗をする。JAXAプロジェクトで大塚さんがナウキャストベースの全球降水マップ研究をしていたが、気象庁から予報業務許可を採ろうという話になった。気象予報士資格を持っていたこともあり、小槻が担当することになる。
余談ではあるが、この時の気象庁とのやり取りや、気象予報業法の勉強は、10年後にムーンショット型研究で活きてくる。そもそも行政官がどういったポイントで見ているのか、や、法律の考え方 (e.g. 理念があってその理念を表現するのが法律。義務と努力義務の違いなど)を大きく把握できたことで、ムーンショット型研究で法律系の研究者と話すための最低限の土台が出来た。当時はこのように繋がるとは思っていなかったが、やはり全力で取り組んで良かった。
当時に意識していたことは、「責任を自ら取りに行って、自分自身のマーケットバリューをあげる」という考え方である。これは大学時代の友人が、銀行から外資系コンサルに転職する際に言っていて、非常に印象に残った。仕事・研究をしていると、容易に自分の世界に入りがちなので、「これ以上を仕事を振らないでください」という気持ちになることもある。だけど、今の若い時には、成長して自分のマーケットバリューをあげるのが一番だと思った。そのためには、自らの身を責任ある立場においておくのが一番である。
ということで、気象庁の予報業務許可や、理研のデータ同化スクール (発展編) の責任も引き受けることにする。このスクールで身に着けたSPEEDY-LETKFも、そのあとの論文・海外共同研究・AI天気予報繋がってくるので、結局頑張ってやれば物事はつながるんだと、振り返ってみて思う。
2017年は論文3本出て (MWR, JGR, QJRMS)、また文科省の卓越研究員に採択されたこともあり理研の特別研究員-->研究員に昇任する。また、科学とは何かといった疑問の解消や、科学的研究の進め方について自分なりの技を編み出したことで、「なんか俺、成長してるかも?」と良い気分であった。何となくデータ同化の本質も掴んだ気がしていた (当時は、多変量の重み付き平均)。
2018年・32歳: 停滞期
この時期、
成長の波は二度来る
2019年・33歳: 転換期
2019年は比較的調子が良い年で、3本の論文を出版する (QJRMS, WAF, SOLA)。
ところで、2019年の2月に理研で国際データ同化シンポジウムを開くことになっていて、小槻っが主責任者になっていた。会場、プログラム、バンケット・Ice Breakerの手配、などなどを有能なアシスタントと一緒に進めたのだが、38歳の今となっては記憶がない。2日目の夜に、invited speakerの方々と飲みに行く機会があった。飲み会の帰りにCraig Bishop先生と一緒に歩いていて、「最近オーストラリアに移ったんだけど、誰か良い研究員いない?」と言われて、「僕とかどうでしょうか?」といってみると、「You? Great!」と言って頂いてその気になった。
後日、三好先生に相談すると、「せっかく研究員になったのに、またポスドクに戻るのはお勧めしない」と止めて頂いた 。当時は世界が分かっていなかったので、感謝している (世界的には、キャリアを振り出しに戻しているように見える。違和感のある履歴書は、それだけその後のキャリアアップを妨げる)。とはいえ、一度海外にも行ってみたかったので、8月に1ヶ月間滞在させていただく機会を頂いた。
(この記事は書きかけです)
「嫌われる勇気」
「成功しないといけない病」
「カンファタブルナ状況に身を置かない」
まとめ①: 経験はあとで振り返って初めて、繋がって見えるもの
Steve Jobsの有名な卒業講演で、こんな言及がある。「You can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.」まさにそう思う。
3回REJECTを食らった逐次同化における同化順序の最適化研究 (Kotsuki et al. 2017; MWR) では、最後に観測インパクト推定 (EFSO) にたどり着いた。このEFSOは、その後NICAM-LETKFにも実装することになり (Kotsuki et al. 2019; QJRMS)、『観測の価値』が自分の研究の強みの1つになった。その強みは、2019-2023年のJST・さきがけの採択に繋がり、さきがけで知り合った数理系研究者との繋がりは、後のムーンショット型研究に繋がる。さて、2014年に同化順序の研究に取り組んだとき、全くこんな事予期できなかった。
データ同化スクールで教えるために身に着けたSPEEDY-LETKFは、後に色んな研究に繋がる。データ同化の高速化 (Kotsuki et al. 2020; QJRMS)、粒子フィルタ (Kotsuki et al. 2022; GMD)など。また、Craig Bishopとの共同研究を論文に出来たのも、このSPEEDYを使った研究である (Kotsuki and Bishop 2022; MWR)。のちのClimaX-LETKFもこのシステムをベースに開発している。「お仕事だから」と適当にお茶を濁さずに、ちゃんと責任を持って遂行したのが後に資産になっているのかと思う。