
はじめに
多くの人は初めて、学部4年生などで研究室に配属されて初めて、「研究」を始めることになる。ところでこの「研究」、学部3年生までにやっていた「勉強」とは全く異なるゲームである。なのだが、多くの場合、「研究とは何か?」を教えられることなくそこに放り込まれるため、研究に戸惑うケースが多い。
このミスマッチを極力なくすために、これまでの経験から思うことを書いていく。
研究とは何か
一言でいうと、「人類がまだ知らない何かを見つけて、知の巨人を成長させること」である。
別の観点で、「研究とは何か」を知るために、「研究は〇〇ではない」という形でも差別化を図ってみる。
研究とは、勉強ではない。勉強とは、既に誰かの手によって体系立てられた学問を学ぶことである。学部3年生までに習う、講義・実験・演習は、全て「勉強」である。「勉強」は、既に体系図けられていることを習得することであり、正解不正解を判断する事が出来る。点数をつける事が出来る。面白いことに、そして多くの先人が指摘する様に、「勉強が出来ること」と「研究が出来ること」は、全く異なる。小槻自身が周りで見てきた学生を見ても、学校の成績と研究能力は、ほとんど無相関に見える。また面白いことに、成績がやや悪い学生が、研究者として大きく成長していくことが、よく見られる。
研究とは、技術を習得することではない。研究の過程で技術は身につくのだが、技術の習得自身が目的な訳ではない。技術を習得を目的化するのは、専門学校の様な組織である。
まだやられてないことは全て研究、ではない。往々にして、「穴が掘ってなかったから掘った」という類の話を、大学でも、学会でも、よく聞く。未だ為されていないことは研究の必要条件であり、その上で、「それが分かることによって、知の体系がどのように深まるか」について、仮説を持っていないといけない。
卒業論文・修士論文で大きな仕事を残すのは、ほとんど不可能である。学部4年生の時点で持つ疑問は、ほとんどの場合誰かによって既に調べられている。例えば、「気候変動で、日本の降水量はどういう変化をしているのだろう?」という疑問を持つかもしれない。この疑問の場合、100件を超える既往研究が見つかるだろう。大学で行う研究は、小学生が行う夏休みの自由研究とは違うのである。研究とは、先人が解決しきれなかった技術・疑問を、一歩でも前に進める泥臭い営みである。勉強のできる学生が、この緻密な作業の積み重ねをできないことが、よく見られる。
では何故、「研究」を学ぶのか
知的に高度な営みであり、これこそが社会の高度人材に求められる技術だからだ、と思っている。
既に定義された問題を解き、良い点数をあげることは、それほど難しいことではない。既にビジネスモデルと仕事が確立された会社に入り、その仕事を着実に遂行する能力に相当する。
その一方で、これだけ変革の激しい社会において、「何が問題なのか?次に何をすべきなのか?」を考えられる人材がいないと、会社はいずれ行き詰ってしまう。つまり、「目の前の課題を完遂する能力」よりも、「何が課題かを考えられる力」を身に着けることが、高度人材として重要なのである。
(ここまで、書きかけ中)