最近いろんな人と話していて考えたことのまとめ
背景
最近、日本では博士人材を増やそうといている。小槻としては、「きっちりと教育された博士」でなければ、数だけ増やしても無意味だと思っている。
日本語論文だけで卒業する。MDPIなどの査読がちゃんと行われているかも怪しい論文誌にだけ論文が掲載されて卒業する。果ては、論文が0本でも学位を取って卒業する。こういう例を実際に見てきた。
個人的には、指導教員が確信を持って博士を出すのであれば、論文が0でも良いと思う。しかし、現実に行われているのは、「もう4年目だから」「もう奨学金が切れるから」といった、科学とは関係のない理由である。
最近考えたこと
日本において、博士はそれほど重要ではない気がする。その理由は、労働者としてのレベルが高いからである。
留学生を指導したり、海外からの研究発表を見ていると、出来る人と出来ない人の差が激しいことに気がつく。極論すれば、高校の物理数学が分かってないレベルで、研究をすすめないと行けなかったりする。当然、研究は不可能である。(一部、体力勝負の実験研究だと何とかなるかもしれない。化学とか)
小槻の仮説
海外においては、この様に労働者 (研究者) の質に大きな幅がある。ここで、「博士」を持っていることで、一定の質が担保されるのではないか、と思った。
日本においては、それは入学する大学の名前が担保してくれている。海外では、入学自体は簡単だったりする。なので、海外においては「博士」という肩書きが重要なのではないかと思う。
聞いた仮説: 博士ではないといけない、という虚構
欧州で研究をしていた方からの伝聞仮説。迷惑が掛かるといけないので名前は出さない。
「博士でないとステップアップできない」という虚構を、社会として形成しているのではないかという仮説。あり得る気がした。
一方では、日本では労働者 (研究者) が優秀なので、その様な虚構は通用しない。「博士を持ってるか」ではなく、「人材として優秀か」が、きちんと見極められる。結果的に、企業が「博士」を重要視しないのではないか。
日本の労働生産性の低さについて
これまでの話は、一応、ストーリーとしては繋がる気がする。一方で、この仮説は、「何故日本の労働生産性が低いのか」を説明しない。
小槻の仮説では、「海外では労働者の質がバラバラ。だから仕組みで管理する」だと思う。これにより、「全体の労働活動の成果を最大化する仕組みのデザイン」に意識を払うことになる。結果的に、みんなで大きなものを作る、というのが得意になる。
一方で、日本では労働者 (研究者) が優秀なので、仕事・研究が属人化する。それにより、スケールメリットが効く、大規模な研究が進まないのではないか。一部、昔の体育会系・講座制では「グループで体制を組む研究」が進められてきた。しかし、ハラスメントに対する厳しい目線、労働時間の管理から、これが崩れてきている
ここまで書いてきたことは、ほとんど労働者=研究者と読み替えても通用するのではないかと思う。
じゃあ小槻はどうするの?
僕自身に出来るのは、日本の科学技術力の低下を、微力ながら改善させることである。どうしたら良いのかはよく分からないし、劇的な処方箋はないだろう。絡まった糸は少しずつほどいていくしかない。僕自身は、目の前の学生・研究員に英語論文を書かせることのみである。
日本においては、「博士」という肩書きが補償する情報は少ない。とはいえ、博士で本質的に学ぶべき仮説演繹・サーベイ・批判的思考は、本当は社会で役立つものである。
「小槻先生のところで博士を取った人なら安心ですね」と業界の人に思ってもらえるような人材輩出をしていきたいし、そういった教育をしていきたい。